本能の余韻
「そこまで」
もう一度。
大きな歩幅で歩いてきたジェイに、今度は静かに言われる。
そこでようやく気づいた。
彼の左手が、私の左の剣を素手で掴もうとしていたことに。
力を抜いたのは私が先だった。そうでなければ、彼の人差し指を今にも落としそうだったからだ。首ばかり狙っていて、手など気にしていなかった。剣をそっと引き、彼の剣を押さえつけていた右の剣も退ける。
俯きながら、ごめんなさい、と言おうとしたところで、凄まじい衝撃が頭に落ちてきた。
「……いっ!!!」
「……っ」
前からもおぞましいほどの「バシンッ」と言う音が聞こえ、私は両剣を地面に突き刺すと、痛む頭を押さえながら顔を上げた。
彼も頭を押さえている。
ジェイは私にげんこつを、彼には相当な威力の平手打ちを頭に食らわせたらしい。両手をぶらぶらと振っているジェイを、私たちはそろりと見た。
「だから」
低い。
童顔の優しい顔から発せられる声は明らかに怒っていた。思わず両手で頭を覆う。彼と比べればかなり手加減されていたらしいが、もう一撃来たら頭がどうなるかわかったものではない。
「だから、シダ様はあなたに枷をつけた上での守る剣の稽古しかしてこなかったんですよ」
じろりと睨まれる。
「自由に力を振るえば、本能が暴走してあっさり一線を越えるだろうから、と。あの人はお嬢様の資質を正確に見抜いていましたからね」
「……あの、ごめんなさ」
「今後、全て装備した上で、誰かの立ち会いがない限りあなた方のお遊びとやらは許可しません」
「それは」
「キリ、口を閉じていろ」
「……」
「わかっているでしょうけど、真剣でのお遊びも許しません。温情のある措置で感謝していただきたいのですが?」
「ええ……もちろんよ」
私は脱力しながら頷く。
そもそも、国外で真剣で戦うこと自体、かなり厳しく罰せられても仕方のないことだというのに、私が悩んでいることを察して見逃してくれたのだ。温情どころではない。
胸に手を当て、深く礼をする。
「ありがとうございます、ジェイ。心配を掛けました」
「まあいいでしょう」
ため息を吐き、ようやく表情を和らげたジェイは私の頭をそっと撫でた。
「はは、少し腫れてますねえ」
「昔、ユーリと木登りをして落ちそうになったときもげんこつが頭に降ってきたのを思い出したわ」
ジェイに本気で怒られるときは決まってそうだった。
どれだけ一緒にいても立場を忘れてくれないと言うのに、それでもげんこつが降ってくるほど怒られるときは私の命が危ないときだけだ。
なでなで、と頭を撫でられていることが猛烈に恥ずかしくなってくる。我を忘れ初めて見境をなくした子供として、あやされているのだ。
反省しなければ。
剣を振ることが純粋に楽しくなってしまって、彼を引き留める以前に「勝ち」に支配されていた。どこまで剣が届くのか、と昂揚していたのだ。自分では止まらないほど。止めるという概念すらなかった。
ジェイとの約束を守るのは当然だけど、次からは決して軽装で手合わせなどしない、と心に誓う。
そうして、おとなしく頭を撫でられておくことに徹した。
この痛みや恥ずかしさや暖かさを覚えていれば、見境をなくすことはもうないだろう。
「それから、キリ」
「……はい」
「お嬢様を止めようとしてくれたことは感謝する。が、お前の指が飛ぶところだった。指くらいならと思っていたんだろうが、やめろ」
「……はい」
「そろそろ止めなければ、と思うなら後退して負けを認めればいいだけだろう」
「そうすれば余計彼女がカッとなるかと」
「ほお?」
唸るような声に、彼は「ギリギリまで遊びたくて」と正直に訂正した。
私たちは、お互い少々「遊ぶ」ことに熱中しすぎてしまったのだ。
「大体あれは、女性にーー妻に振るう剣ではない」
「はい」
「お前は本当に鈍感すぎる」
「……は、い?」
しおらしく叱られていた彼は、最後の「鈍感」の部分で首を傾げた。首が痛んだのか、押さえている。
ジェイは、いいですか、と私と彼に向かって最後のまとめとばかりに言いわたした。
「夫婦喧嘩は被害を最小限に押さえるように」
夫婦、喧嘩。
思っても見なかった言葉が出て私も彼も一瞬ぽかんとジェイを見てしまった。
そんな私たちを置いて「ギャラリーが増えていたのでちょっと行ってきます」と、ジェイはいつの間にか私たちを遠巻きに見ていた人々を丘の広場から追い出してに行ったのだった。
私は突き立てていた剣を抜き、鞘に収める。
彼も漫然とした動きで剣を仕舞い、ゆっくりとその場に腰を下ろした。とんとん、と隣の地面を叩く。
「グレース」
呼ばれ、私も隣へ腰を下ろして剣を置く。
眼下では青空を映した湖がきらめき、それを見ていると、今になって昂揚の反動で手が震えた。マントの中でぎゅっと手を握る。
「すまなかった」
「謝るのは私の方では? あなたの指を飛ばすところでした」
「それはいいんだ」
「……よくありません」
「まあ、確かに、その後に君が相当後悔するというところまで考えていなかったのはよくないんだが、つい。楽しくなってしまった。俺が冷静になって一歩引くべきだった」
彼がすっと手を差し出してきた。
震えているのを見透かされていたらしい。誤魔化そうと思ったが、私の右手は引き寄せられるようにさっさとマントから出て、彼の手の上に着地した。
いつもは硬く感じる彼の手が、やわらかく、そして熱い。
私の手が冷たくなっているのだ。強ばった手を、大きなそれが包み、私の手をほぐすようにぎゅっぎゅっと握る。労っているような、慈しんでいるような、泣きたくなるような優しさだった。
この人は本当に、どこまで私を甘やかすのだろうか。




