水面と青空
ブーツで草を踏む度、ふかりとした優しい感触が伝わってくるような気がする。
「それで?」
私が聞くと、ジェイは「はい」と相づちを打った。
「私をからかう意味で言ったのではないのでしょう」
「ええ、まあ。他から聞かされるよりはマシかと思いまして」
「それはそうね。一瞬で頭が沸騰しかけたわ。ジェイだから、それを聞かせる意味があるのだと思えたの」
「信頼していただけてなによりです」
にこっと子供のように笑われては、でも誤解を招くような話し方は意地悪だからやめてちょうだい、など言えなくなる。
私は話の先を促すことにした。
「二人にその気はなかったのでしょう?」
「はい。周りは皆、キリと彼女がそのうち夫婦になると思っていたらしいですが、それが一番妥当だっただけです。お嬢様はキリのことも信頼しているんですね」
「というか、信頼よりも事実なのよ。彼にしてみれば、騒がしい周りを収められるのならとっととユイ様と夫婦の形でも取っていたはず。けれどそうしなかったのは」
きっと、義姉に想う人でもいたのだろう。
人を慈しめる彼のことだ。お互いが割り切った婚姻関係だからこそ、私と結婚をした。
私が隣を見上げると、ジェイは目を細めて安堵したように私を見る。
「……正直、ユーリやあの方があなた達は夫婦円満だ、と言うのを疑っていました。ただあなたがうまくやっているのだろう、と。あの懐いたフリがうまい獣が相手で大丈夫だろうか、と。でも、ソラシオスの討伐に行くために迎えに行ってみれば、キリは嫉妬らしきものをしているし、突然チェスを仲間たちに仕掛けていたり、昨日は昨日でベッドでひたすら考え込んでいるし……振り回しているのがあなたの方だとは思いも寄りませんでしたよ」
「私も振り回されているわ」
「どこがですか。屋敷の庭で遊んでいるんでしょう。餌を与えるのがうまいですね?」
遊んで、の部分を強調したジェイが笑いをかみ殺す。
「もちろん勝っているわよ?」
「お見事です」
「私たちらしくやっていくわ。キリ様に振り向いていただけるのは時間がかかるでしょうけど」
「言っている意味がわかりませんね」
「ユーリと同じことを言わないでちょうだい」
かいつまんで説明することもなく「あいつは自分の感情に鈍感ですからね」とジェイが言う。
きっと、鈍感になることで生きてこれた部分が多いのだろう。
でなければ人など斬れない。
手の指までも、あんなに傷だらけにはならない。
丘の上まで登り切ったらしい。
そこは広場のようになっていて、一層強い風がマントを大きく揺らして駆け抜けていった。
居住地になっている歩いてきた丘の反対側は、草原の緑よりも多くの岩が転がり、その先に湖が見えた。水面がきらきらと輝いている。
美しい光景だ、と思った。
どこまでも自由な風を、彼も、祖父も、ここから分けてもらっていたのだろう、と。
ただひたすらに続く「自然」の大きさが、ちっぽけな身体を何度も貫いて通り抜けていく。
私は考える間もなく、口を開いていた。
「……キリ様は、ドージアズへ帰ってくるのかしら」
この空気を吸い、この景色を見て、あの国に帰りたいと思えるのだろうか。
彼を疑っているのではなく、純粋にそう思った。
ああ、だからだわ。
「だから、ジェイも一緒なのね」
ソラシオスへの遠征に行ったときにわざわざ迎えに来たように、彼の里帰りに「私の護衛」としてついて来たように、彼を見張っているのだ。
「疑われていたのね。私が鎖になっているのか」
「そうじゃありません」
即座に言われ、落ち込んでいるわけではなかったが、少しだけ気持ちが軽くなる。
ジェイはもう一度言った。
「そうじゃない。ただ、あのような男ですから。人の為にこの大きすぎる家を出たのなら、また人の為にドージアズを出ても仕方ない、と思ってるだけです。そもそもあれは、繋がれておくような男ではない。ふらりといなくなるような気がするんですよ」
誰とは言わなかったが、ジェイが誰を思いだしているのかはよくわかった。
祖父が最期までドージアズにいたのは、祖母がいて、そして自分の家族ができたからだ。
まだ子供もできた気配のない私には、そういう意味での期待がもてないところが不安要素でもあるのだろう。父やユーリがいくら庇い立てをしてくれていたとしても、どこからか「本当に大丈夫なのか」と突っつかれていてもおかしくはない。ジェイに損な役回りをさせていることに申し訳なく思った。けれど、安易に謝ったりはしない。それがジェイの仕事であり、その仕事はジェイの誇りなのだ。
「キリはあなたを大切にしています。そこを疑ってはいません」
「ふふ。ありがとう。私もそう思うわ。だけど」
「……呼び出してきた理由ですよね」
「そうねえ」
二人で湖の水面を見つめる。
青空が反射して、どこまでも澄んでいた。
「顔を見せてほしい、と手紙が来たと聞いているわ。内輪揉めって言っていたけど、そんな雰囲気ではなかったわよね」
「ですね。あなたが来たことにとんでもなく驚いていましたし」
「申し訳なさそうだったわ」
「キリを説得でもするつもりだったんでしょう。帰って来いと」
「成功したかしら」
私は彼に聞くことができるだろうか。
一緒に帰ってくれますよね、と?
彼がここに残ると決めたら、それを私の存在一つで食い止めることなどできないとわかっていて、試すようなことを言うことができるだろうか。そんな、愚かで恥ずかしいこと、私に。
「グレース」
遠くから呼ばれ、反射的に振り返る。
私の名前を柔らかに呼ぶ彼の表情は、乱暴な風に髪を乱され見えなかった。




