森
ミドとは雰囲気が違うララガの国は、とても穏やかな国だった。
ミドの国が人と物の流通地点になっていて「外から人が来る」開かれた国だが、ララガはその地にいる者のための国だった。煉瓦づくりの家々は密集せず、庭も大きく取られている。はためく洗濯物に、庭で遊ぶ小さな子供らの笑い声、ベンチで空を眺める老人。時間がゆっくり流れているような、人々の心にゆったりとした余裕がある、そんな国だ。大きな建物も一つしかなく、鐘楼のあるそれは中心部から左右に広がっており、子供らの学び舎があり、診療所があり、国の役所があり、来客用の宿泊施設もあるのだという。
その背後に「森」はある。
気圧されるような存在感を前にして、私は彼と話す時間をどうにか捻出しようとしていたが、今後の予定を六人で打ち合わせ、あっという間に解散の運びになり、気が付けば「森」に一歩足を踏み入れていた。道らしき道はなく、沢の数歩隣の足下が安定しているとことを彼が先導し、真ん中に私が、最後にジェイが黙って歩く。馬たちは、余所の獣を持ち込めないことからララガへ預けてきた。
確かにここは、山と言うより「森」だわ。
道の途中ではずいぶん大きく見えていたが、入ってみると、確かに広大な敷地ではあることはわかるが山頂を目指して上っている感覚はない。なだらかな斜面で急ではなく、しかし沢から水が流れているのを見れば、それなりに勾配があるらしいことにようやく気づく。
まるで、人を惑わすように、今自分がどこにいて、上っているのか、下っているのか、勘が狂ってくるのだ。
木々は鬱蒼としているが、日の光はよく届くし、沢の側だというのに空気がからりと乾いている。複雑に配置された壁のような木々が、生きていることを主張するようにむせかえるほどの生命のにおいを鼻先に届け、朽ちていく植物のにおいが、足を踏みしめる度に這い上ってくる。
ドージアズの屋敷の中では触れてこなかった、生と死のにおいだ。
庭の薔薇のにおいが思い出せない。
不思議と、このにおいが好きだった。
深呼吸をする度に「生きている」と感じるのだ。
先を迷いなく歩いていく彼の背を見上げる。どこか嬉しそうだった。ただのマントしか見えないのに、そう思う。一歩進める度、その背中が「戻ってきた」と力を漲らせているような気がした。
よかった。
無理を言ってついてきて、正解だったわ。
おしゃべりを禁止されていなければ、彼の意識を私に繋ぐために、きっとひたすら話しかけていただろう。彼が自分の居場所を思い出し、屋敷には帰らない、と言い出さないように。私がいれば、一度は私を屋敷に送るために帰るしかない。
なんて卑怯なんだろう。
アンナは私の心が広いと言うけれど、そうじゃない。ユーリの言うように、彼のことを考えてなどいない。ただただ、私が彼を側に置いておきたいが為にしていることなのだ。
恋なんて、愚かだわ。
恐ろしいことに、それでも「じゃあやめた」なんてできない。
恋なんて、感情の暴力でしかない。
小さく息を吐いたのが彼に聞こえたのか、ふと足を止めて振り向かれた。
自分の矮小さに呆れて出たもので疲れているわけではないのだけど、その目は心配そうなそれだった。
急いで首を横に振る。
本当か、と言いたげな瞳を見れば、慈しまれているように感じて、私は気づくと彼との距離を詰めてぐいっとマントを引っ張った。
「……キリ様」
大丈夫です、と耳元で囁く。
マントを離すと、なぜかびっくりした表情の彼と目が合った。
違ったのだろうか。
心配されていないのに「大丈夫です」なんて言いに行ったのなら間抜けでしかない。
それとも、小声でも話すことは厳禁だったのだろうか。
どうしようかと逡巡していると、ふとざわりと木々が揺れた。
大きな風の塊に、深くかぶったフードに手を当てる。
と、そこに凛とした声が響いた。
「帰ったか、キリ」
さりげなく、ぴっとフードを抑えられる。
話すな、と言うことらしい。
木々の間に、馬が見えた。
乗っているのは、長い黒髪の、肌が透き通るように白い女性だった。一目見て、彼の家族であるとわかる。血のつながりがないことは知っているが、その目に宿した静けさと凶暴さが、そっくりだったのだ。
「……久しぶりだな、ユイ」
「出迎えに来てやったぞ、ありがたく思え」
「どーも」
「ふふ、相変わらず可愛くのない」
笑うと、途端に花が咲いたように華やかになり、目を離せなくなる。
「そっちこそ相変わらずで。詳しくは書いてなかったが、何かあったのか」
「家で話すよ。そっちはジェイだろう。新人も一緒か。すく連れてこい」
「はいはい」
ユイと呼ばれた女性は、手綱を引くとくるりと回転して木々の間に消えて行った。
彼女が消えて数秒後、ジェイがふーっと深い息を吐く。
「……お嬢様、いつから軍部に入ったんです?」
「入れるのならいつでも入るわよ。話しても大丈夫なのね?」
「ええ。お迎えに来て下さったので」
そうして、私の肩をぽんぽんと叩く。
「大丈夫ですよ、傍にいます。そのために来ましたから。ね」
「……別に大丈夫よ」
「そうですよね」
あやされている。私が彼女の存在に怯えているのではなく、彼の家族に初めて会うことや、私の知らない彼を目の当たりにすることに対して不安に思っていることを見抜いているのだ。
安心して力が抜ける前に、ぐいっと腕を引っ張られる。
私の腕を掴む彼は、ジェイににっこりと笑いかけた。
「結構です。俺が傍にいるので」
「無理だと思うぞ」
「どういう意味です?」
「さあ」
にこにこと朗らかに応酬する二人の背を宥めるように叩き、とにかく行きましょう、と私はそのままぐいぐい押すのだった。




