言葉
朝。昨晩のように食事を運んでくれた彼と静かすぎる朝食を終え、身支度をしようと立ち上がると、珍しくのんびり食べていた彼が私を引き留めた。
「グレース」
「はい」
「聞いていいか」
「なにかしら」
本当に何だろう。
見上げてくる彼の目は恨みがましいようなそれだった。
凄んでいても美しいのだから、全く怖くはないどころか、惚れ直してしまいそうだ。
薄い唇を開き、彼はゆっくりと言う。
「君は、どうして別れ際に考え込ませるようなことを言うんだ」
「……まあ」
「グレース」
「いえ、嬉しくて」
「グレース?」
テーブルの上で腕を組んだまま、呆れたような眼差しが寄越される。
私は再び椅子に座り、真っ正面から彼のそれを受け止めた。
「考えてくれたのですか?」
「あれを無視できるほど俺は鈍感ではない」
「ふふ。知っています。あなたは人の心の機微を読んでしまう方ですから」
自分の心にはずいぶん鈍感だけれど。
私は彼に笑みを向ける。
「ですから、わざとです」
「知っている」
「あなたを試しているわけではありませんから、怒らないで下さいませ」
ただ、自分から避けて知ってこなかった感情の情報を与えたいだけだ。
それで少しでも悩んでくれたのなら、と思う気持ちはもちろんあるけれど。
「返事は求めません。勝手に好きでいます」
私は言う。
「けれど、だからと言って何もしないとは言っていないので、私にできることをさせてもらいます」
「なるほどなあ」
「あなたを甘やかすのは、私しかできませんので」
「あれは甘やかしているのか?」
「もちろん。あなたが気づくまで、あなたに必要な言葉をお渡ししているだけです」
私を必要だと、妻で良かったと、独占し、嫉妬して、そういうものを「普通で当たり前の感情」だと思わないで欲しい。それを抱ける相手は多くはない。
彼は私が伝えたいことを受け取ってくれたのか、立ち上がった。
食事の片づけをしてくれるらしい。私が「ありがとうございます」と声を掛けると「出発の支度を」と穏やかに言い、静かに部屋を出ていった。
やはり、彼だって私を甘やかしていると思う。
何を言ったって、そうやって受け止めて許してくれるのだから。
「お嬢、おはようございます」
元気よく手を振って、厩舎の前でリックは愛馬を撫でて言う。
「おはよう、リック。マイクとリースも」
リックは「いい天気で良かったですね」と溌剌と言い、マイクとリースは深々と頭を下げる。これが普通の反応だ。ドージアズの令嬢に、彼らは自ら声をかけたりはしない。彼女たちがどこに嫁がされるかで、コミュニケーション一つが命取りになることもあるからだ。ましてや私のように嫁いだ者に関しては、親しくない限り、会話すらしないのが一般的だった。鎖となる彼女らに不用意に触れたりなどしないし、できない。
「おはようございます、お嬢様」
「ジェイ」
私の馬を連れてきたジェイから手綱を受け取ると、亜麻色の艶々な背を撫でて朝の挨拶をする。ご機嫌は上々だ。
「ありがとう、ジェイ。悪いわね」
「きちんとお休みになられましたか?」
「もちろん。急なことで悪かったわ」
「いいえ。あなたが我が儘を言える相手ができて、嬉しい限りですよ」
多忙な両親にも我が儘を言わず、祖父には緊張しながらも稽古を付けてもらっていた姿を、ジェイはよく知っていた。父のような顔で笑みを向けられては、少しばかり照れてしまう。
ジェイはそっと私の隣に並び、声を潜める。
「あなたの相手があれで大丈夫かと思っていましたが、安心しました。ずいぶん翻弄していらっしゃいますね?」
「今度是非ゆっくり話しましょう」
どんな様子か聞かせてほしい、と暗に言うと、いたずらな笑みで何度も頷かれた。
帰ってからの楽しみがぐっと増える。
そこに、ぬっと陰が差し込んだ。低い声が割って入る。
「近くありませんか?」
「キリ様」
「キリ。馬は受け取れたか?」
「……ええ、まあ」
「じゃあ行こうか」
上官の顔をして、ジェイはさっと馬に乗る。
彼は私の顔を見たが、私がすぐに手綱を持ったからか、手を貸すことはなかった。左足を鐙に掛けて地面を蹴り、馬に負担のないよう、軽やかに飛び乗る。
「シダにそっくりだ」
彼も黒馬に跨がり、私の隣に並んだ。
これはもしかして褒められたのかもしれない。目を見れば、きらきらと輝いていた。
「祖父から血の滲むような特訓をされればね」
「本当に滲んでそうだな」
「ふふ。おかげであなたとこうしていられるのだから、祖父に感謝しなければ」
「君の努力の賜だろう」
すぐに甘やかすのもどうなのかしら。
私はマントのフードをかぶり、むず痒いような幸せを誤魔化すのだった。
ミドの国を抜けて、再び整備された道を行く。
蹄の足音が軽やかに響き、道行く人々と会釈を交わす。
あと三時間ほど行けば、次の国、ララガに着くそうだ。
国々は小さく、それぞれ独立するように国と国の間の道は大きく取られている。一つが攻められても、次の国までは時間を稼げるように、という理由らしい。この道が時間稼ぎに使われたことがなく、人々が自由に行き交うことができることは尊いことであり、純粋に嬉しく思えた。
ララガは彼の古巣である「森」の麓になる。
三人は私たちが森から下りてくるのを待つ間、そこから小さな村にも視察に行くと言うことだった。ジェイも一緒に「森」に入り、私の護衛をしてくれるそうだ。
あそこはちょっと、特殊な自治区ですから、とジェイは言う。
馬上からみるその姿は深い緑色で、そこだけ不思議と色が濃く、存在がくっきりと発光しているような猛々しさがあった。
徐々に大きくなっていくが、不思議と恐ろしさは感じない。
なぜなら、彼の家族のことをリサーチしていなかったことに気づき始めた私が、どう挨拶するべきか悩んでいたからだ。




