幸福の在処
ミドは石造りの建物が多く、道は灰色だったが、生活感を感じる窓の柵には緑色の蔦や花が多く彩られていた。無機質な外壁に映えて、とても美しい。
そこに、徐々に黄身を溶かしたような夕暮れの色がじんわりと滲んでいくと、町の風景は神秘的に見えた。
関門のない国の入り口には、奥に続く町まで露天がずらりと並び、旅の必需品から、おみやげや、おやつまで、様々なものが広がって賑わっていた。
馬から下りて引いて歩いていると、どの人もすぐさま気づき、どこか羨望の眼差しで会釈をする。先頭のリックはそれぞれ「知り合い」がいるらしく、名前を呼んで「元気?」と陽気に声をかけていた。物怖じしない、というレベルではない。おかげで、後ろに続く私たちが無言でも、誰も気にとめていなかった。ドージアズの紋を持ち、帯剣している六人組に対して、一切警戒しないどころか、歓迎していたのだ。
今日泊まる宿の厩舎に馬たちを預けると、賑やかなリックは、無口で静かな残りの二人、マイクとリースを腕で抱えるようにして「遊んできます!」と笑顔で日が暮れていく町に消えていった。あんなに正反対なのに、三人は仲がいいらしい。
「遊びに行くって言っても、酒場の見回りですけどね。お嬢様はゆっくり休んで下さい。一人部屋ですが、問題はありますか?」
「ないわ。視察ですもの」
「ええ、視察という名の新婚旅行ですが、宿の代金はこちら持ちなので、一応、体裁は繕っておきましょう」
「わかっているわ」
「では、行って参りますので。キリは残って護衛を頼む」
「わかりました」
彼が軽く頭を下げると、ジェイは慣れた足取りで三人が消えた方とは違う方向へ消えていった。
宿に二人で入ると、身なりでわかるのか、すぐさま若い女性から最上階の二階に案内され、あっという間に部屋に通された。
こじんまりした、静かな部屋。敷居の高くない宿の、どこか素朴な雰囲気が思ったよりもほっとする。思えば、私は贅沢な暮らしに慣れすぎていたのかもしれない。
「大丈夫か?」
今までずいぶん無口だった夫から気遣われ、私は脱いだマントをソファに置きながら答える。
「疲れているように見えますか?」
「いや、むしろすごく楽しそうだ」
「……はい。ドージアズから出たことが初めてなので、全てが新鮮です。自分の傲慢さと世間知らずな部分も思い知って恥ずかしい限りですが、それもまた学ばなければならないことだと痛感しています」
ふと、テーブルに置かれたピッチャーが目に入った。レモンの輪切りとミントが浮いている。いつもなら「お茶を」とアンナに声をかけているところだが、私はピッチャーを手にとって、伏せられていたグラスに注いだ。
彼を見ると、頷かれたのでもう一つのグラスにも注ぐ。
一口飲むと、ほんのりと感じるレモンとハーブの香りがした。
グラスを仰いだ彼が、空にしたそれをテーブルにおくと椅子に腰掛ける。
「毎回宿を変える決まりらしいんだ。今回はここに最初から決まっていて動かせなかった」
「あらまあ……お嬢様扱いされてます?」
「少しな。だけど、さっきの君の言葉を聞けば余計な世話などいらなかったと反省しているよ」
「いいえ。心配して下さるのは嬉しいわ」
彼は私をじっと見る。観察するように、しげしげと。
「君は見た目に反して逞しいよな」
「それは、褒めています?」
「もちろんだ。普通の貴族の令嬢ならば、もっといい宿の、さらに一番の部屋を取れとか、部屋付きのメイドを連れてこいとか言うだろうが、君は自らを省みただろう」
「あなたによく思われたいもの、殊勝な態度だってできるわ」
「そんなことを言って」
笑い出した彼は、思わずと言ったように顔を覆った。
「殊勝な態度を繕える器用な令嬢は、危険のある派遣団に混じろうとしないし、ドレスも着ずに男装をして腰に二つも剣を差して馬に乗らないぞ」
「危険なんてないもの。あなたが一緒ですから」
「そして君も強いしな」
「もちろんです」
ずっと彼が無口であったことが嘘のように軽口を叩いていることに、ふと嬉しくなる。私はやはり、勝負だろうとなんだろうと「彼と話せること」が楽しいのかもしれない。隊列を組んだ馬の上では話せたものではない。外の景色を味わうのは楽しかったけれど、こうして、小さな部屋の中、いつものようにテーブルを挟んで他愛ない話をしていることの方が、どこか幸福に思えた。
「ああ、そうだ」
彼が席を立つ。
「夕食は下の食堂なんだが、軽いものでよければ取ってくるよ。君の所作は美しすぎて人目を引くだろうから、部屋で一緒に食べよう」
「あなたのマナーも綺麗で完璧ですけど?」
「あれは気をつけているからな。君のそれとはまた違う。待っていてくれるな?」
念を押されたので「ええ待ちます」とにこやかに反撃する。
苦笑した彼は「楽な格好に着替えておいたらどうだ。三十分は戻らない」と私の身支度にまで気を使って、部屋を静かに出ていった。
ブーツを脱ぎ、着ていた服はハンガーに掛けて皺を伸ばし、洗面台でタオルを濡らして身体を拭う。
アンナにこれだけは持って行ってください、と小さな荷物入れに詰め込まれた小さく畳まれた部屋着のワンピースに袖を通せば、全身からほうっと力が抜けた。顔を洗い、まとめ上げていた髪を下ろす。
いつもの自分に戻る儀式を教えてくれたアンナに、帰ったらたくさん感謝しなくては。
癖の付いた髪を手で撫でるが、全く言うことを聞かない。
ぴよん、とあちこちに跳ねる髪と格闘しながら、私は彼が戻ってくるのを鏡の前で待つことになるのだった。




