かくれんぼ
「あら。お帰りなさいませ」
私が事も無げに言うと、夫は私を黙って見た。
昨日。
ユーリに言ったことはしっかり夫に伝わったらしい。
今朝帰ってくるとわかっていた私は、日の出よりも先に起き、アンナにいつもより気合いの入った支度をしてもらい、さっさと書類仕事を終えて、サンルームの扉をすべて開け放して座っていた。
まだ朝の八時。まだまだかかると思っていたが、どうやら急いで帰ってきたらしい。
私は座ったまま、向かいの席を指す。
にっこりと笑いかければ、一ヶ月半前と寸分変わらない夫が大きなため息を吐いて、頭を掻いた。
「グレース」
「お帰りなさいませ?」
「……ただいま帰った」
夫は渋々と言ったように絞り出し、私の前に座る。
私は彼に向かってすっと頭を下げた。
「ご無事で何よりです。お仕事、お疲れさまでございました」
「……ありがとう」
「私の実家の面々は元気でいましたか?」
「君は本当に」
彼はテーブルにひじを突くと、苦笑した。
眉が下がっている表情は子供そのものだ。
「お見通しか」
「ええ、もちろん。あなたが帰国しても帰ってこないなら、行く場所は私の実家しかないでしょう? だいたい父もユーリも騒がないのだから、それしかありません」
父に祖父の話でもして、繋がりのあることをそれとなく伝えれば、滞在なんて一言目で許されただろう。父と祖父の話でもして夜な夜なお酒を飲んでいたに違いない。
「君の想像通りだよ」
「でしょうね」
「君の母上は察してくれて、そっとしておいてくれた」
「ユーリもですか?」
「彼は思ったよりもいい男だな」
「私の初恋の人ですので」
初恋といっても、初めて「素敵な子」と思えた異性という意味だけど。
彼の目がほんの少し険しくなったのを見て、微笑む。
「なにか?」
「いや」
「では、かくれんぼも私の勝ちね。今夜も初夜はいたしません」
私が言うと、彼は面食らったように私を見た。
剣呑だった空気が和らぐ。
「帰ってきてもいい、と?」
「そう聞こえましたか?」
「聞こえた」
その目が強く頷く。
ようやく彼らしい顔になった。
「帰ってきたかったのですか?」
「ああ。ただ、なぜか戻れず」
「父が引き留めたんですね」
「それもある」
「……ふ」
思わず笑うと、彼はほんの少し息をついて肩の強張りを解いた。
正直になろうとしているのだわ。
「すまなかった」
ぽつりとこぼされた言葉に、私は軽く頷いた。
「……君に何を言えばいいのかわからず、逃げた。逃げたところで何も変わらないことはわかっていたんだが」
「迷惑でしたか」
「そうじゃない」
即答されたことに、内心ほっとする。
「そうじゃないが、戸惑ったのは事実だ」
「ふふ」
「……なぜ笑う?」
「だって」
逃げていたのに、帰ってこなかったくせに、こうして私の前にちょこんと座って誠実に答えようとしているなんて。
なんというか、変だ。
むっとする彼の顔を、私はきっとゆるんだ顔で見つめているのだろう。
仕方がないので、ゆっくりと彼の気持ちを引き出すことにする。
「今まで勝負をしてきましたが、すべて負けて下さったのはどうしてです?」
「油断はしたが手加減をしたつもりはいない」
「以前もそう仰っていましたけど、本当かしら。だって、あなた私と初夜を迎える気などなかったでしょう」
「君の誤解だ」
「あら。変ね。私が好きだというと困るのに、初夜は迎える気であったと」
一瞬、彼が言葉に詰まる。
なぜかほんのりと目の下が赤い。
「それは」
「それは?」
「……言わせるのか」
「はい、もちろん」
笑顔で押すと、彼はテーブルに片手で頬杖をついた。
「……男として、君に興味があったからだ」
「男として」
「そうだ。面白い提案をしてくる妻に対して男として興味があった。あんなに負け続けるのも不本意なほどにな」
「それにしても楽しそうでしたけど」
「君と遊ぶのが楽しかったんだよ」
「そうですか」
「そうです」
照れているわ。
ぶっきらぼうに言う彼を、私は見つめる。
「なんだ」
「いいえ? 愛しいなあ、と思っていただけです」
「……君は案外ストレートな人だよな」
ふと驚かれた後に、しみじみと言われる。
私はにっこりと頷いた。
「ええ。私、素直なんですの」
「それは知っている」
「男としての興味はもうありませんか?」
「なあ、少しストレートすぎないか」
「あなたに遠回しな言葉は無駄な気がしまして」
「確かにな」
「それで、どうなんです?」
「もちろんある」
「あるんですか」
「あるんです」
私が驚いているのを見て、彼は一度頷いた。
頬杖のまま、私の手をじっと見ている。そうして、ぼんやりというように呟いた。
「でも、以前とは少し違う。じゃあしましょうか、となれば、俺は待ってくれと言うと思う。きっと、男としての興味より、君自身への興味の方が強いからだろう。簡単に身体を手に入れるのがとても惜しく感じる。もっと、君自身を知りたいとか、君と遊びたいとか、食事を一緒にする回数を増やして、見送りも出迎えも毎日してもらいたい、と思う。笑ってくれていれば嬉しいし、君がたまに甘えてくれたときは、君が望む以上に甘やかしたいとも思う。じゃあこの感情がなんなのか、と聞かれたら、俺にはよくわからない」
「本気ですか」
私は唖然とした。
これは、告白じゃないのかしら。
どう聞いても熱烈な愛の告白に聞こえるのだけど、彼は私の指先を見ながら「綺麗な手だよな」なんて真面目に言う。
本気だわ。
この人、本気で愛も恋も知らないのだ。




