思い出
テーブルの上に散らばった積み木のような木片と、しんと静まる寝室の空気の中で、私はうっかり口を滑らせたことを一瞬後悔した。
そう、一瞬だけ。
「私の勝ちですね」
忘れつつあったが、これはただのお遊びではなく、初夜を掛けた勝負なのだ。
情け容赦なく、卑怯で上等。勝ちが全てだ。
「ということで、今夜も初夜はいたしません」
ゆっくりと椅子から立ち上がる。
夫を見下ろすと、その顔はやや呆けたままで、私が微笑みかけた途端に徐々に眉を顰めていった。
「今のは卑怯だぞ」
「戦場では卑怯も戦術のうちでしてよ」
「確かにな」
崩れた木片をみやると、彼は「はいはい」と片づけを始める。
「……昔々」
「あるところに?」
ぼそりと言った彼の後を次ぐ。
彼はふっと無邪気に笑った。
ブランケットだけをソファから取ると、肩に掛け、再び椅子に座る。
「聞いてくれるのか」
「私が尋ねたので、最後まで聞く義務があるかと」
「真面目だな」
「どうも。でもはやく休みたいのでちゃっちゃと進めてください」
「それでこそ君だ」
褒めたのだろうか、彼は目を細めてひたすらに木片を積んでいく。
意外と生真面目に、きっちりと。
「……ドージアズから二つ離れた小さな国。森の中に少数民族が集まって、お互い助け合ってきたようなところに、俺は捨てられていたんだそうだ。捨て子がおいて行かれるのは相当珍しかったらしく、多種多様な価値観の中で育てられた。あと、剣も」
そう、と言う私に、彼は緩く頷く。
懐かしむように。
「まあ、あとは君の言ったように、力を追い求めたくなって思うがままに振るってきたんだ」
「そうですか」
「で、ある日そこに綺麗な格好をした一団がやってきた。どうやら森の侵入者を追い返していたせいで悪名がドージアズまで届いてしまったらしい」
追い返していた、なんて言っているが、丁重にお引き取りを願っていたはずがない。
私が怪訝な目をしたせいか、彼はめざとく気づくとにっこりと笑った。
「森には川があってだな」
「下流に流して二度と来るなと脅していた、と」
「そんなところだ」
木片を積み上げていく気の抜けた音が、話の深刻さを和らげる。
ことん、ことん、と。
「それが君の父上だ。俺を見てたいそうびっくりして、ドージアズに来ないかと誘われた」
「意外ね」
「……なにが?」
「侵入者を川に捨てていたほど、森を守っていたあなたがそこから出るなんて」
私が言うと、彼は微笑みらしきものだけを向けて口を閉ざした。
理由は言う気がないらしい。
それに、巧妙だ。
どこでどう育ってきたかは今の話で何となくわかったが、結局話のあらすじを聞かされただけだ。私が聞いた「隠し子か」という問いには全くふれていないし、肝心なことを言うつもりはないと私に示した。
ここで引くべきだろう。
それはわかるが、このままでは気持ち悪いので聞かせてもらう。
「それで、あなたは隠し子なのですか」
「直球すぎないか」
「眠れそうにないのでハッキリさせておきたくて」
「そうか」
笑われた。
ずいぶん無邪気に。彼は私に対して怒ることなく「うーん、そうだなあ」とのんびり言う。いつも礼儀正しくあるよう努めているが、時折そうやって身体から一枚何かが剥がれたようになる瞬間があった。
知らない「男」なのだとつくづく思う。
「俺は言ったように捨てられた人間だから、親はわからん。が、物心付いた頃には年に三度くらい森に来るおっさんがいた」
「何をしに?」
「さあ。ただ、森の者達は歓迎していたな。管理をしに来ていたような感じではなく、ふらっとやってきて、困ったことはないか、と聞きに来る感じだ。友人が旅の途中で寄ったような」
「……どんな方?」
妙な感覚がした。
年に三度。ドージアズのふたつ隣の国。森の中にいる少数精鋭の民族。
聞き覚えがあるような気がする。記憶の底の、さらに深い底。
彼は木片を持ち、手の中で転がした。
表情がやわらかくなる。
「長髪のおっさん。白い髪を、一つに束ねてた。身なりは崩していたけど背に鉄板でも入ってるみたいに綺麗で、剣の腕前は森の者達の誰よりも強かった。俺を目にかけてくれていて、よく稽古を付けてくれたよ」
「緑色の紐」
「え?」
「緑色の紐で、髪を結ってなかった?」
私が言うと、彼は私を見て目を見開いた。
ああ、嫌な予感ほど当たるものだわ。
「名前は、シダ」
「……知ってるのか」
「私のおじいさまです」
かたん、と木片がテーブルに落ちる。
瞠目した彼が落としたそれを、私はつまみ上げて彼の手に戻した。
「今思い出しました。昔、稽古後に二人で庭に座り込んだときに尋ねたことがありました。いつも外に行く人でしたけど、年に三回ほどどこも汚れていない状態で帰ってくることがあって。その前日もそうだったことを幼い私は無邪気に聞いてしまった。おじいさまはどこにいってらっしゃったの、と」
動かなくなった彼の代わりに、私は散らばった木片を積み上げる。
ゆっくりと。
あの日の祖父はご機嫌だった。
庭に座り、剣を芝生の上に刺して、そして遠くを見ていた。
祖母からのプレゼントである深緑色の紐で結った髪が風に乗って揺れて、汗一つかいていない涼やかで歴史の刻まれた横顔は、ここにいるのにまるでどこかに行っているようで、心許なさが幼い胸にあふれてきた。
私が聞くと、祖父は突然戻ってきたように私を見て驚いて、それから笑った。
柔らかく、寂しく。
「おじいさまは言ったわ。私の小さな分身のところに、と」
あのころは意味がわからなかったが、今ならわかる気がする。
「じゃあ、俺はもしかして」
夫が小さく呟いた。




