バランス
「おかえりなさいませ」
私の出迎えに、夫はその顔にふさわしいにこやかな笑みを向けてきた。
昨夜は突然感情が高ぶりふて寝のような形で寝たので、朝はもちろん起きられず、いつものようにのんびり起きてベッドで少し休んで、庭に出たり、書類の整理をしたりして一日を潰し、使用人達のぎらぎらした目をかわし続けていたら、あっという間に日が暮れていた。
どうせ今日も遅くなるだろう、と思った夫の帰宅は、思いの外早かった。
慌てて出迎えた私がどんな目をしているのかわからないが、彼はとてもとても楽しそうに私を見下ろしている。
「父上に早くに帰されてな」
「……そうですか」
「君の自称兄が何かを言ったようで、今日は不気味なくらいご機嫌だったぞ」
妻の父であり上官に対してなんて言いぐさだ。
けれど、言いたいことはよくわかった。
ユーリが「あの二人はうまくいきそうですよ」とでも言ったのだろう。今まで監視対象として目を光らせていたが、本日を持って「一人娘の夫」という目で見始めたのだ。ついでに、私が剣で勝ったことでも大袈裟に父に伝えて心配を吹き飛ばさせたに違いない。
使用人が、普通の人達に変わるのも時間の問題かもしれないわ。
「夕食を一緒にしても?」
彼が聞く。
私は大きく頷いた。
「ええ。そうしましょう。使用人達の負担も減りますわ」
「なるほど。確かにそうだな。今夜はなにをして遊ぶ?」
「遊びではありません。勝負です」
「あー、そうだったな」
二人で歩くと、さりげなくエスコートされていた。
私が気づいてぎょっとすると、おかしそうに笑われる。
二人で夕食を初めてともにして、使用人達にはにこにことされながらすばらしいスピードで食事は終えた。彼らも早く自由時間が欲しいのだろうし、私たちも私たちでお喋りに興じながらのんびりと貴族的な食事をする気は毛頭無かったのだ。
そうして早々と夜の身支度を終えて寝室に戻ると、珍しく先に来ていた夫は、なにやらいつものテーブルで書類に目を通していた。
足を組み、頬杖を付いてぺらぺらと紙をめくり、ペンを走らせてサインをする。
いつものように適当に着たシャツと、頭にタオルをかけていた。
「お待たせしましたかしら」
「いや。悪い、持ち込んで」
「いいえ、気になっていたのです。私でいい案件は私が済ませていますが、きっと旦那さまも確認していらっしゃるだろうに、いつ、と」
「……朝食の時に」
顔を上げた彼が少し笑む。
私が椅子に掛けると、すぐに書類を閉じようとした。
「いいですから、続けてくださいませ」
「君と遊ぶ」
「お仕事が先かと」
「仕事はもうしてきた。一日の楽しみにしてるのだから取り上げないでほしい。なにをするんだ、今日は」
だめです、と言える雰囲気ではない。
彼はものすごく真剣に言っているのだ。私と遊ぶ、と。
私は少しだけ考えるふりをして、それから仕方なくと言ったように頷いた。
「でしたら、その書類を捌きながら勝負をしましょう」
「しなきゃだめか」
「今ここに持ってきていたのなら、明日の朝までに必要なものなのでしょう。私との勝負の後でこっそりと睡眠時間を削られては困りますもの」
「なるほど」
「旦那さまは意外と真面目でおいでですから」
「それは褒められているのか、けなされているのか……」
「両方です」
私はクローゼットに向かうと、一つ取り出してテーブルに戻る。
置いたのは、長方形の形の箱だ。上から開けて、ひっくり返してそうっと箱を持ち上げる。そうすると、複雑に組み合った木片が、すらりと長方形の形で立ち上がった。
「……これは?」
「バランスゲームです。この小さな積み木のような木片を、順番に抜いて、そして抜いた木を上に積み、それをひたすら続けて倒した人の負けです」
「ふうん。簡単そうだな」
「そうですか? では私から」
「あ」
彼が、あ、といったのは、私がさくっと真ん中の右端を抜いたからだ。
一番上に、そっと乗せる。
「思い切りがいいな。では俺の番だ」
「片手でお願いしますね。あと書類のサインも」
ちらりと私を見上げて「容赦がない」と呟いた。
彼はそろそろと、その無骨な手で木片をつつく。その姿がなんだかおかしくて思わずくすくすと笑ってしまうと、タオルの奥の顔が仕方なさそうに和らいだ。
「お。とれた」
ことん、と上に載せる。
私が書類に目を向けると、渋々といったように目を走らせる。
「言っておくが」
「はいなんでしょう」
「君に任せた書類は再確認していないからな」
あら、そうですか、と私は一番下の真ん中の木を一本抜き、上に積む。
「それは、私を信頼してくれていると?」
「というか、そもそも」
彼は書類を持ったまま、左手でひょい、と抜いた。
二度目にして感覚を掴んできたようだわ。
「俺のような無法者がこんな長ったらしくて意味のよくわからない書類を捌くより、君の方が遙かに信頼できるぞ」
「あら、どうも。では、私でも構わないものがあればこちらで多く巻き取りましょうか」
「君が負担でなければありがたい」
「お茶会もことごとく断っているので時間はありますわ」
「それはよかった」
暗に何もしていない、と伝えたというのに、彼はなぜかほっと安堵したように言う。
私の夫は変わった人かもしれない。社交をしてあちこちにパイプを作れと言われないのはありがたい。
二人で交互に一本抜き、上に積み上げていく。
彼はぱらぱらと書類に目を通しながら、サインをして。
私はその姿を目で追いながら。
気づけば、所々抜け、バランス悪く積み上げた意地の悪いタワーができあがっていた。
大声でも出したら崩れ落ちてしまいそうだ。
「そういえば、私ずっと気になっていたのですけど」
「なんだ」
彼が爪の先で、つんつんと慎重にずらす。書類は最後のサインを待っている。
「旦那さまはもしかして、どちらかの貴族様の隠し子だったりしますか?」
ガチャン!
木片が一気に崩れ、テーブルの上に広がった。
崩れる瞬間の、目を見開いた彼の表情。
ああ、私は言ってはならぬ事を言ってしまったらしい。




