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9/10

7/9「怪獣総進撃」:人間の暴力、怪獣の暴力

今作は「怪獣大戦争」同様の、暗く、おどろおどろしいカラーを持つ「ゴジラ」だ。前作から一転した作風に当時の人の多くは戸惑ったのではないかと想像する。少なくとも僕は戸惑った。


だがとても楽しめた。脚本は筋が通ったものになっている。今作は完全に人間が主役だが、非常に面白いドラマが見れた。


しかし、僕はこの映画に気持ち悪さを感じた。


「ゴジラの息子」を見た翌日にこれを見たせいかもしれない。だが、この映画が決定打となって3日ほど僕はゴジラから離れた。それほどまでに、ダメージが大きかった。


ほぼ日刊を謳っておきながら前回の更新から6日も経ってしまったのは、正直いってこの映画のせいだ。僕は見るのをやめようかとも思った。昭和の人々がどのような倫理観を持っていたかは分からないが、僕は当時の人々の視点をサッパリ想像できない。これを無抵抗に受け入れることが出来たというなら、この映画を見た人々はとても無邪気だったのだろう。



さて、「怪獣総進撃」の話に移ろう。


昭和ゴジラシリーズは、おそらく全作繋がっている。年々発展する科学は、昭和の街にSF的風景を上書きし始める。しかしそれでもこれまでの作品では、目立ったSF的ガジェットを除けば「ゴジラ」は昭和の枠に治まってきた。先端科学だからという言い訳が、今までの「ゴジラ」には残っていた。


だが今作で、ついに虚構は現実を凌駕した。


建設された月基地。

当然のように観測される円盤。

そして、飼いならされた怪獣たち。


ゴジラとの最初の接触から、「怪獣」への認識は非日常から日常へと変化していた。


それはまるで人間の、自然に対する畏敬が失われていく過程のようでもある。未知なるものが既知のものに成った時、その生命の尊厳をいともたやすく踏みにじる。


ゴジラもモスラも、その動物的性質を隅から隅まで解明され、その生理を利用して人間の都合のいいよう扱われる。


そして人間は、彼らを操ることになんの感慨も抱かない。それが可能だから、今そうなっているから。それだけの理由で彼らは行動する。人は慣れと愚鈍によって行為を正当化していく。


映画だから、葛藤を省いたのかもしれない。


しかしコントロールを失った人々が怪獣たちに街を蹂躙され阿鼻叫喚する図式は、不思議なくらいになんの感慨も抱かないのは、どうしてだろう?


前作「怪獣島の決戦」の感想で、僕は「動物としてのゴジラ」が強調されたと話した。今作は決定的だ。怪獣は小笠原諸島のとある島に追いやられ、そこで人間の監視下に置かれている。そこには怪獣への畏敬はどこにもない。


この映画はとにかく淡々と物語が進行する。なにも特別でないかのように、なにも不思議でないかのように。


その奇妙な静けさが浮き彫りにするのは、人間の暴力の本質だ。


怪獣をその中点において、キラアク星人と人類は戦う。キラアク星人は怪獣を操り、人類をも操る。その手段を解明した人類は、今度はキラアク星人の手法を利用し怪獣を操る。そうして怪獣をけしかけて、キラアク星人をやっつける。


ドラマの王道勧善懲悪、この世に平和がもたらされる。それで物語は幕を閉じる。

しかし人類が取った手段は、結局のところキラアク星人と何ら変わらない。無慈悲な暴力による報復。キラアク星人がそうしたように、人類も怪獣を操る。キングギドラ一匹を相手に、人類は怪獣による一斉攻撃を命令する。


集団による個への暴行。いくら個が強くとも、為す術もなくキングギドラは敗れる。地に落ち倒れたキングギドラは、「倒せ」という命令を受けた怪獣たちにより追い打ちを食らう。鈍い打撃音に、びくびくと首をしならせて苦悶するキングギドラ。黄金の獣の、ひどく弱々しい嘶き。それがキングギドラの最後。


初めてキングギドラと対峙した時とは、まったく違った光景だ。

そして何より、後味の悪い倒し方。まるでキングギドラが弱者であるかのような錯覚を僕は覚えた。

たぶん、あの集団との対峙においてキングギドラは弱者だったのだろう。彼もまたキラアク星人に操られる存在だった。彼もまた、尊厳を踏みにじられた被害者である。


「三大怪獣 地球最大の決戦」で、ゴジラとラドンはキングギドラを徹底的に追い詰めたりはしなかった。キングギドラが逃走の意志を示した時、二匹は逃走を許した。あの時、モスラの糸を用いて動きを封じ、殺すこともできたはずだ。


なぜか?


トドめの有無を分けたのは、人類の意志の介在だ。「三大怪獣 地球最大の決戦」において、モスラに説得されたとはいえ、怪獣二匹は自らの意志で戦った。人類に対する嫌悪をハッキリ示した上で、地球のために彼らは戦った。それは生存をかけた争いだ。相手を殺すことは、目的にはない。あれは防衛戦なのだ、キングギドラは勝手に逃せばそれでよかった。怪獣の、いや、動物の暴力はあくまで手段であり目的ではない。


だが、「怪獣総進撃」は違う。ゴジラもモスラも、みな人間に「キングギドラを結託して倒せ」という意志を植え付けられた。その目的は、対象の粉砕だ。人類の目的は防衛だが、その命令は、まったく防衛ではありえない。攻撃衝動を誘発させられ、怪獣はキングギドラをリンチする。それは暴力のための暴力だ。方向性はまったく違う。


キングギドラを倒しても、敵を倒せという命令は上書きされない。ゴジラは衝動の発散のために、山から飛び出たドームを攻撃する。それを見ても、人類は「ゴジラは敵をわかっているのだ」と喜ぶだけだ。

彼らは自らの行為にまったく無自覚だ。その無邪気さは、ひどく気持ち悪い。


人間の暴力は、怪獣の尊厳の征服という形で発露した。

だから怪獣たちも、キングギドラの生命を征服したのだと感じる。


穿ち過ぎだという自覚はある。

しかし僕には、この映画に人間の暴力の指向性のなさを突きつけられた気がした。

なんだか、乱文になってしまいました。後日、調子を整えたりして、改稿すると思います。

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