7/8「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」:グロテスクな物語
最初に言っておく。僕はこの映画に嫌悪感を抱いた。見終えたあと、全然スッキリしなかった。
それが過去からの変化によって生じてしまったものだとわかっていても、割り切れなかった。
だからまずは「ゴジラシリーズにおけるこの作品の位置づけ」について考えることにして、後段部分に自身の印象を記すことにする。
最初は時代性を反映しているのかと思ったのだが、第二次ベビーブームは70年代。この映画の公開が67年だったので、ちょっと早すぎる。後のベビーブームを先読みしたお話だという解釈もできるかもしれないが、どうも違う気がする。なので、今作は純粋の娯楽映画だとした上で、ではゴジラシリーズにおいてはどのような意味合いが存在するのかを考えてみた。
結論から言おう。
ゴジラの幼体が描かれたということが最大の意義なのではないだろうか。
ゴジラが動物であることはわかっていたし、その登場の段階から恐竜の一種だとされてきた。しかし恐竜は熱戦を吐かない。それもあってか、突然変異種だという説明がされていたと思う。
突然変異種は個体数が少ない上、子を残すことは難しいというのは生物学ではよく知られている話だ。
そのゴジラが、子どもを残せた。これは、地球においてゴジラが繁殖可能であることを意味する。
ゴジラには希少動物としての価値があるというのは第一作の時点から発言されていた。繁殖可能であるならば、ゴジラを保護・繁殖し、その生態を研究していくことも可能だろう。
ゴジラは今作において、ついに「怪獣」という特別な存在から完全に動物の一種に変化したのである。
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現代の僕らがこの映画を見た時に感じるグロテスクさは、ハッキリ言って時代の違いによるものだ。これを論じたところで過去に対する失望感を書くことにしかならない。現在の我々はこの映画で描かれるような安易な気候操作が地球レベルで見た時いかな悪影響を与えるかについてはよく知っているし、生命に対する倫理観もこの時代からかけ離れてしまうくらいには変化している。
過去の間違いを指摘することはまったくもって生産性のない行為で、ナンセンスだ。
それが僕の第一印象で最大の印象だった。
この映画は娯楽映画だ。未開の島における冒険を描く一方で、ゴジラの子育てを描いている。愛嬌のあるミニラの顔立ちと、子どもらしい無邪気な動作は見ていて思わず笑顔が浮かぶ。
そのミニラに尻尾をおもちゃにされても怒りはせず好きに遊ばせてやったり、放射熱線の放ち方を教えてやったり、ミニラの危機に駆けつけ息子を守る父としてのゴジラの姿も見どころだ。
ゴジラが動物であるという決定的描写は「三大怪獣 地球最後の決戦」で描かれており、今作は「動物としてのゴジラ」の側面が強調されている。クモンガの毒に侵されるゴジラの姿など、第一作からは想像もできなかった。
そんな映画の、どこがグロテスクなのか?
先ほど書いた「この映画に感じたグロテスクさ」は極めて人情味あふれるゴジラ親子の物語が展開される一方で、彼らの環境をめちゃくちゃにした人間はそのことに極めて無頓着だという点にある。
食料もまともに蓄えず、クモンガの毒に侵されてふらふらだったゴジラがミニラを抱いて眠りについても、この脚本で描かれる人々の目には「冬眠」と写るらしい。
たしかに彼らが生きて逃げ延びるためには、島の環境を気温をいたずらに乱高下させることが必要不可欠だっただろう。たとえそれでゴジラ親子が冬眠しても、人間にとっては痛くも痒くもない。なんだか可哀想ね、のひとことでオシマイだ。
白状すると、僕は気持ち悪さしか感じなかった。この脚本を書いた人間の神経を疑った。しかし当時は生命が今ほど詳しく解明されていなかったし、倫理観も大きく異なっているのだから、しかたのない事だけれど。
だからこの映画を素直に楽しむことができなかった、というのが感想だ。




