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盛大な、溜息が零れております。
それはもう、長く長く。
「ばっかじゃねぇの、いや、ホント。馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、マジでもう……お前……」
呆れたような情けないようなそんな複雑な……いやその感情は唯一つ、怒ってます。
「ホントに年上? 俺、お前をねーちゃんとか呼んでんの? おもいっきし子供だろ、やることが」
もう、これぞがっくり。がっくりの決定版だね☆ て、感じです――
私は首に当てた手でそこをさすりながら、俯き加減に視線を動かす。
「まー、そんなんでさー。明日までに、あのアパートでなきゃいけないんだよね……」
「は? 明日?!」
ぎゃー、哲の声が怖いよーっ
「いや、もうここに戻ってこないつもりだったしー。だから、昨日退職したら今日にでも出て行こうと思ってて。その……、大家さんに突然契約切るの頼み込んだもんだから」
今更、まだ住みたいでーすとか……言えなくて……
だんだん声が小さくなっていく私に対して、もう、黒いとしか言いようのないオーラをばんばん放つ哲があきれ返った声を出す。
「だったらさっさと課長と結婚して、一緒に住めばいいじゃん。つーかさ、結婚しなくても課長んちに転がり込めば? 喜ぶぜー、あの無表情」
トッ……トゲトゲしいです、哲弘くん。
「てか、昨日課長と話して上手くいったんだろ? んで、何で翌朝十時に俺んち来るわけ? 今頃、課長の部屋でいちゃこらしてる時間じゃねぇのかよ。あー、想像したらムカツク――って、あれ? いや、ちょっと待て。もしかして、お前昨日課長んとこ泊まんなかったの? もしかして、自分のアパート帰ったの?」
あっ、あの――
「え、マジでか? 嘘だろ? あんだけこじれてたのが上手くいったのに、はい、さようならって? え、盛りあがんねーの? つーか、そのままなだれこまねーの? てか、課長何考えてんの?」
「なっなだれこむって……っ」
「――お前、もしかして……結婚までお預けとかいう……」
「哲!!」
目の前のローテーブルを、両手で力任せにぶったたく。
それはものすごい音を立てて、哲の口を止めてくれた。
哲はなぜか憐れみを含んだ表情で、課長生殺しとか呟いていたけれど、軽く無視。
「そっ……そーいうわけじゃなくてっ」
どっ、どー説明すればいいかな。
「その、ね。すぐに、課長と結婚しないって考えたのはね」
俯いたまま話し出す。
それは、今まで私が見ないようにしていた部分。
「課長に、親と同じ事をしてるって言われて、凄くショックで――
周りを守るためについていたはずの嘘は、突き詰めればただ自分を守っていただけで。
その上、何も言わずに消えようとしていた。
ちゃんと考えていたつもりだったけれど、大丈夫とか言って大丈夫に見えない私の存在は、どれだけ皆に心配を掛けていただろう。
私は違うって、そう思っていたけれど。
言われて見れば、その通りだった。
“確かにお前が怖がるように、人の気持ちに絶対はないと思う。けれど、絶対になるように努力をしていくことは出来るはずだ”
“話し合う、努力。歩み寄る、努力。理解しようとする、努力”
そう課長に言われて、ふと感じたこと。
私は、あの時、努力しただろうかって。
課長は、逃げ出そうとしていた私の話を、聞いてくれたのに。
歩み寄ろうとしてくれたのに。
お前が邪魔だって突きつけられるのが怖くて、凄く怖くて。
だから、言われる前に逃げ出した。
全部親の所為にして、切り捨てて逃げ出した――」
哲は、ただ黙って聞いている。
何も言わずに、ただじっと。
「本当の事いうと、両親のこと……許せないんじゃないの。多分私は……、許したくないんだと思う」
今でも、あの日を思い出すと、胸が苦しくて怖くて。
大切で確かなものだったはずが、いきなり崩れていくあの感覚は、きっと味わった者にしか分からない。
「けど、あの事があって今の自分が存在しているって事は、紛れもなく事実で」
その自分の中に、あの時の痛手を背負ったままの高校生の自分がいる。
それが私を臆病にしてきたけれど。
だから……、だから、ね。
「だから、努力、してみる」
「努力?」
聞き返されて、頷く。
「理解しようとする、努力。あの時は全てに絶望して、0にしてしまったけれど。少しでも、理解する努力、してみる。自分の感情に対しても……親に対しても」
「美咲……」
その声に、涙が出そうになって顔を上げて笑い声を作り上げる。
「あれだけ課長に言われても、そんなものかって感じなんだけどさ」
「……それで、いいんじゃね? ゆっくりでさ。大体、あんな状況、逃げ出さない方がおかしいって。聖人君子じゃねぇんだから」
膝についた両腕で頬杖をつきながら、優しく笑う哲。
「だからさ。触れようとしなかったその部分に、向き合おうって思ったことだけでも凄いんじゃねーの? ていうか、そういう気持ちにお前をさせたって事、課長凄いな」
「哲……」
なんでだろ。
優しい言葉の方が、泣けてくる気がする。
首に当てていた手で、両目をぐいっと拭う。
「だから自分と向き合って、もう少し自信を持ってから……その、けっ……結婚を考えて、貰いたいなっ……なんて」
哲は目を瞑って小さく頷くと、分かった、と呟いた。




