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しばらくして、唇が離されて。

私はそのまま、後ろのドアに寄りかかって課長を見上げる。


もう、逃げ出そうとは思えなかった。


触れた唇が、震えていたから。

私じゃなく、課長のそれが。

強引な言葉、態度。

私が課長を好きだと確信めいたその行動とは裏腹に、不安そうな意識が伝わってきたから。



課長は腕を伸ばして、ドアの横にある電気のスイッチを入れる。

途端、暗かった部屋が明るくなって、思わず目を瞑った。


課長が、私の名を呼ぶ。


「俺が、好きか?」

すぐ目の前から聞こえてくる、低い声。

「俺を、好きか?」

責めるでもなく、穏やかに伺うような声。

「俺が、……大切か?」


大切――


「たい……せ……つ」


目を閉じたまま、呟く。


止まっていた涙が、頬を伝っていくのを感じながら。


「課長が、大切……」



変えようもない、それは真実。

言いたくて、伝えたくて仕方のない言葉。


伝えたら、もう、逃げられない。

何もなかったことに、もう、出来ない。



暗くて汚い、私の、本心――



「大切だから、離れたかった……。好きで、ずっと一緒にいたくて」


頬に触れる、温かい指先が涙を拭っていく。


「きっと、私……課長を縛り付けてしまう。私の事だけを想ってくれるように、私だけに縛り付けてしまう」


黒い、黒い私の感情。


「だけど、自分の感情に左右されて皆に迷惑をかけて。仕事さえちゃんとできない私なんか、すぐに嫌われるに決まってる」


嫌われたら――


「課長に嫌われたら……、課長がいなくなったら――私……」


見たくない、言いたくない私の心。

弱い、弱い本当の私。



「もう、立ち直れない……」




こんなに重い感情を向けられて、どれだけ嫌な思いをするだろう。

何で私、こんな女になったんだろう。

他人に依存しなければ、自分の存在さえも確かなものに出来ない。


課長の好きな久我 美咲は、こんなんじゃないでしょう?





ゆるく、息を吐き出す音が聞こえて、課長の言葉が響いた。


「……凄い、プロポーズだな」



――プロ……ポ……?

いきなり言われた言葉に、頭がついていかなかった。

プロポーズ……?

今の、私の言葉のどこにそんなものが――


「え……?」

視線を上げると、片手で口元を抑えている課長の姿。

私と目が合うと、ふぃっと視線をそらした。

「課長?」

声を掛けると、咳払いをしてその手を外す。

そして表情を戻して、私に向き直った。


「悪かったな。お前の本心を聞きたくて、さっきは酷いことを言った。お前を傷つけると分かっていて、口に出した。謝る」


半ば放心状態の私は、課長を見上げたまま。


「あのな、久我。俺は、お前のその考えを否定はしない。誰だって触れられたくない弱い部分がある。皆がみんな、それを解決できるわけじゃない」


だが――


課長はそう言って、口を噤んだ。


その姿を怪訝そうに見ていたら、課長は私の両脇に手を入れると立ち上がらせた。


「課長……?」

泣いた所為で掠れた声で名を呼ぶと、手を引かれて自分のデスクに寄りかからせられた。

そのまま、課長は斉藤さんの机の横に立つ。



「だが、ここから逃げたとしても、お前は楽になれないって事、分かってるか?」

机に手をついて、真剣な表情のまま課長は言葉を続ける。

「お前、本当は何から逃げたいんだ? 俺からじゃないだろう」


何、から?


「お前が逃げ出したいのは、お前自身からなんじゃないのか?」


「それ……は……」


口を噤む。


私、自分から、逃げたかった?


傷つけるから逃げたいんじゃなくて……

傷つけてしまう自分、から?

自分によって傷つく人を見たくなかったから……?



え……?



大切な人から逃げたいんじゃない。

大切な人を傷つけてしまう、自分から逃げたかった?





「俺で、手を打て」


「え?」


俯けていた視線を、課長に向ける。


「いつまでも逃げ続けるくらいなら、ずっと俺を頼ればいい」


その目には、さっきのような不安な色は浮かんでいない。

「四ヶ月前の、やり直し」

課長は、穏やかに笑っていた。



四ヵ月、前。


脳裏に浮かぶ、同じ状況。





“だから、もしかしたら。本当にもしかしたら、来年中に結婚できるかもしれないじゃないですか”


“こんな勤務時間も適当な職場にいて、積極的に恋愛を求めているわけじゃない。そんなお前が、あと一年三ヶ月で恋愛と結婚をこなせるとは思えないが”





思い出した状況に、懐かしさと共になんとも複雑な心境になる。


「あの時いきなり結婚を持ち出したお前に、もしかして相手でもいるのかと思って結構焦って否定したんだけどな。瑞貴の存在があったし」


課長が焦る……?

想像がつかなくて、何も反応できない。

だって、思いっきり無表情で否定してくれましたよね?


「まぁ、そうしたらボディーブローが来たから、この調子じゃぁ男はいないなと少し安心したが」

「それは課長がっ……」

課長が、酷いこと言うからっ


焦る私を見て、面白そうに笑っていた課長が真剣な表情に変わった。


「訂正する。お前は、今年中に恋愛も結婚もこなせるよ――俺と」


思わず、後ずさる。


「お前を、縛り付けてもいいか?」


その言葉に、目を見開く。


「お前を、俺だけのものにしていいか?」


「だって……私は……っ」


「お前は俺を縛り付けてしまうと言っていたが、きっと俺はそれ以上の力でお前を縛り付けるよ」


その目は、強い意思を宿す。


「確かにお前が怖がるように、人の気持ちに絶対はないと思う。けれど、絶対になるように努力をしていくことは出来るはずだ」


「どりょ……く?」


「そう。話し合う、努力。歩み寄る、努力。理解しようとする、努力」


立ち尽くす私の頬に、課長の指が触れる。




「一生、俺の傍にいて欲しい」


頬を滑って、その手が肩を掴む。


「一生、俺以外の男を見ないで欲しい」


ゆっくりと引き寄せられて、腕の中に捕らわれる。


「一生、俺の……」


課長の……大切な人の温もりの中、大切な人の声が耳元に落とされた。




――俺だけの“美咲”で、共に生きていって欲しい――





背中に回った手のひらが、私の身体を押さえつけた。

その力の強さに、身体だけじゃなく心も捕らわれる。



温かい――



そのまま課長の背中に、ぎこちなく両手をまわしてみた。

触れた手のひらには……縋りたくて仕方なかった、大切な人の温もり。

掴んだスーツから伝わる、微かな震え。

伝わる、鼓動の早さ。

真剣な、想いが、伝わる――



「傍に、いて、いいんですか……?」


頬をスーツに摺り寄せて、その背に縋る。


「お前に、いて欲しい」


身体から直接伝わる、声。


「俺は、お前が好きだ。お前は?」


「あの……」


「お前は?」


腕の力が緩んで、背中に回っていた右手が後頭部に触れて上を向かせられる。

視線の先には、課長の顔。


「美咲、お前は?」


無表情でも、笑っているわけでもない。

真剣なその表情に、涙が滲んだ。




「――好きです……。課長の……宗吾……さんの、傍に……いたい――」



緊張気味だったその表情が、笑みを浮かべて綻んだ。




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