27
自分の声を……その言葉を、脳裏で繰り返して。
頭を上げてから、もう一度課長のデスクを見て。
ゆっくりとその表面を指先でなぞりながら、振り返ろうとしたら。
「受け取らんぞ、そんなもの」
低い声が、私の動きを止めた。
後ろを向ききっていない私には、声を発した人間が誰か見えないけれど。
ドアとホワイトボードの間の壁に、寄りかかっている誰かの足が視界の端に映った。
怖くて、視線を上げることが出来ない。
だって……
その声は――
「受け取らないからな」
いつもより低く、いつもよりぶっきらぼうに聞こえる、その声は――
「久我」
そう言いながら、相手が動き出す音。
革靴が、床を叩く音。
近づいてくるのが分かっているのに、動けずにいる自分。
誰も、いないと思っていたから。
緊張の糸が切れてしまっている私は、突然の状況に対応できずにそのまま固まっていた。
「聞こえてるのか?」
さっきよりも近くで聞こえたその声に、びくっと肩が竦む。
「……っ」
考えるよりも先に、反射的に身体が動いた。
靴音の聞こえる方向の、反対へと無意識に逃げ道を求めて床を蹴る。
逃げ、なきゃ――
「あっ」
いきなり走り出そうとした意識に足が着いていかず、がくっと膝から崩れ落ちる。
けれど来るべきはずの衝撃は、いつまでたっても身体に伝わってこない。
「なぜ、逃げる?」
真っ白になった頭では、何も考えられないけれど。
事実は、正確に状況を突きつける。
背後から回された腕に、抱きとめられている、自分。
腰に廻った腕と、掴まれた右腕。
背中から伝わる、温かい体温。
身体から、一瞬にして力が抜けていきそうになる。
震える膝に、何とか力を入れて身体を支えていた。
「久我、どこへ行く」
“もし、まだいたとしても。
蔑まれる顔でもいい、最後に見れれば幸せなのかもしれない”
そんなことを考えながら、さっきここまで歩いてきた。
馬鹿だ、私。
顔を見たら決心が揺らぐから、会わないほうがよかった。
そんなこと、よく考えれば分かることなのに。
「い……えに……」
見当外れの返答だとは分かっていた。
そんなことを聞いているわけじゃないことくらい、分かっていた。
「――今、何を置いた?」
私の返答に反応することなく、答えを強要するようなその声音になんとか口を開く。
「あの」
退職、届、です。
言おうとしているのに、言葉になってくれない。
唇が、……身体が震える。
いつまで待っても返答のない私に焦れたのか、身体に回っている腕の力が緩む。
距離をとろうとする私の身体を、掴んだ右腕を引き寄せることで正面に向き直させて動きを止めた。
「俺がいないと思って、ここに来たのか? いないうちに、あんなものを置いていこうとしたのか?」
無意識に見上げたその先には、課長の姿。
射るような強い視線が、私を見つめていた。
途端、頭の先から血が引いていく。
「確かに、丁度出ようとしていたところだったが」
淡々と、それでもいつもより感情の込められたその言葉に、身体が竦む。
課長の言葉にドアの方を見ると、ホワイトボードの下に鞄とコートが置いてあった。
電気を消したところに、私が来たらしい。
「残念だったな。タイミングが……お前にとっては悪かったか?」
逃げなきゃ……逃げないと……
課長の声を聞きながら、バカみたいに頭の中で繰り返されるのはその言葉。
ここから逃げてしまえば、その後のことはもう私には関係ない――
右腕を掴んでいた手の力が緩むのを感じて、一気にそれを引き抜く。
もつれそうな足でなんとかドアに縋った時、開けようとしたそのドアがけたたましい音を立てて再び閉じた。
その音に驚いて、思わず肩を竦める。
閉められた勢いでドアノブから外れた右手を掴まれて、身体を反転させられた。
閉まったドアに、力任せに押し付けられる。
よく見れば、課長の右足がドアを蹴るように置かれていた。
それがゆっくりと降りていくのを見ながら、動けずに固まっている自分。
「逃がすか」
掴まれたままの右手が、ドアに押さえつけられて。
「お前が本心を言うまで、逃がさない」
課長の声が、響く。
「久我」
その声に、目を瞑る。
見ちゃ、駄目だ。
縋りたく、なってしまう――
「離して、ください」
ピクッと右腕を掴む課長の手が、反応した。
「あの、退職……届です。もう、上には受理されて、ます」
「俺は、知らない」
それでも私の行動を見越していたのか驚きは見られなかった。
ただ、淡々とその事実を否定する。
「俺は、受け取らない」
「それでも、いいです」
課長が受け取らなくても、問題はない。
「離してください」
何とか出てきた声で、もう一度伝える。
それは、懇願に近い響きを持っていた。
意図したわけじゃないけれど、もう触れていたくなかった。
触れていたいけれど、止まらなくなる。
忘れられなくなる――
「嫌だ」
反対に掴む手に力が入って、どうしていいのか分からなくなる。
何も言葉が浮かばなくて、一番言いたくなかった言葉が苦し紛れに出てきた。
「私は、課長の事好きになれなかったって……言ったはず、です。それが、本心、です」
イタイ――
胸が、苦しい。
こんなこと、言いたくないのに。
「まだ、嘘を言うか」
「嘘、じゃない……、だから離してください」
お願いだから……
「離さない」
「……っ」
ぎゅっ……と、心臓を掴まれたような甘い痛みが広がる。
こんな状況だというのに、自分を求めてくれるその課長の言葉に、
嬉しさが浮かび上がって……それでもまだ微かに残る理性がそれを抑えつける。
好き、好きです
本当は、大好きなんです
離れたくないんです
ずっと、ずっと傍にいたい
だから……
だから、課長から逃げたいんです――
流せない涙の代わりに、心の中でひたすら言葉が零れる。
目を合わせてしまったら、その気持ちを読み取られてしまいそうで。
閉じた目を、開けられずにいた。
頭の上で、息を飲み込む音がした。
「俺は、お前が好きだ」
ゆっくりと、言い含めるように紡がれる言葉。
掴まれていない左手で、意味はないと分かっていても耳を塞ぐ。
「俺は、お前を逃がさない」
「や……」
首を横に振りながら、課長の声を聞くまいと耳を塞ぐ。
聞きたくない、聞きたくないっ
私を、離してっ
私を――
「俺を捨てて、お前だけ楽になるなんて許さない」
――?!
心臓が、大きな音を上げて鼓動を刻んだ。
「す……て?」
課長を、捨て……た?
私、が?
大人しくなった私の腕を離した課長の右手は、顔の横に着かれたまま。
上げられた左手も、右と同じで私の顔の横。
腕、一本分しか離れていない場所から、課長の声が響く。
「俺を捨てて、逃げるんだろう?」
捨て……
「……ちが……」
違う……
瞑っていた目を見開いて、小さく頭を振る。
私が、課長を、捨てた?
「お前は、俺を捨てたんだろう?」
「そんなっ」
胸の前で、両手をぎゅっと握り締める。
「捨ててなんか、捨てるなんて――っ」
そんな、事――
「親にやられた事を、お前は俺にするのか」
「違う!」
握り締めた拳に、爪が食い込んでいく。
その痛みが、わずかに正気を保たせていた。
私が、あの親と同じ?
「違う……私は……」
嫌……、あんなのと一緒にしないで――
「あぁそうだな、違うか」
あれだけ確信めいた声音で言い放った割りに、あっさりと認める課長の言葉。
それでも違うといわれて、少し気持ちが凪ぎかけたけれど。
「お前の親は、ちゃんとお前に話しをしていったんだったな。何も言わずに俺を捨てるお前の方より、まだましか」
ふっ……、と身体から力が抜けた。
膝が折れ、ドアを伝うように床に座り込む。
まし……? あの、親が?
「何が、お前と違う? お前のしていることは、お前がされたことと何も変わらないじゃないか」
違う、あの人達は邪魔になって私を捨てた。
嘘ばかり、吐いて。
私は……、私は課長が好きだから――
好きだから――
嘘、つい……て……?
ゆっくりと、課長が屈んで立ち膝で私の顔を覗きこんだ。
暗さになれてきた視界に、首元が浮かび上がる。
「俺だけじゃない、お前とずっと一緒にいた瑞貴も、斉藤、間宮、佐和や真崎でさえお前は捨てていくんだろう?」
課長の口から、溜息が漏れる。
「俺といるのが、そんなに嫌か?」
違う……
頭の中で繰り返す言葉を、口を押さえて止める。
これを言ってしまったら、逃げられなくなる――
消えかかる理性が、言葉を押し止める。
「俺の存在が、そんなに邪魔か」
見開く目から、堪えきれなくなった涙が零れていく。
言いたいけれど言えない言葉の代わりに、頬を伝っていく。
「消し去りたいほど、お前にとって俺は……この場所はいらないものだったんだな」
「違う!」
思わず、叫んだ。
止めようとしていた言葉が、堰を切ったように吐き出されていく。
もう、止まらなかった。
「自分が消えてしまいたかっただけっ」
口元から外れた両手で、目の前のスーツを掴む。
「課長が嫌いなんじゃない、自分が嫌いなだけ。課長が邪魔なんじゃない、私の存在が邪魔なだけっ!」
あんな人達とは違う、自分の為だけに私を捨てた人達とは違う。
ドアについていた右手が、指を伸ばして涙を拭う。
「……お前は、俺が嫌いなんだろう?」
「嫌いなんて、言ってない! 好きだから……、好きだから離れようと――!」
言葉は、途中から続かなかった。
口を、課長のそれで塞がれたから。
見開いたままの目に映る、同じく目を開けたままの課長。
後頭部にまわされた手のひらで押さえられていたけれど、逃げようとか何も浮かばなかった。
見詰め合ったまま、触れるだけのキスが続く。
何が起きているのか、パンクしそうな頭では何も考えられなかった。




