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課長は押されるまま私をその腕から解放したけれど、それでもすぐそばで私の顔を覗き込もうと上体を屈める。
「久我? 見せてみろ」
「え?」
伸ばしてきた課長の指先から逃げるように、思わず後ずさる。
空を切った指先を、課長はじっと見つめてその視線を私に向けた。
「なぜ、逃げる」
細められたその目に、微かな怒り。
「逃げてなんか……」
「休み明けから……お前、俺と二人になるのを避けているだろう?」
「そんなこと……」
「気付かないとでも思ったか?」
畳み掛けるような会話に、頭がついていかない。
どう言えば、課長は納得してくれる……?
どういえば、この場をごまかせる……?
「……辛ければ、俺を頼れ」
「……」
その声に、視線を下げて俯く。
課長を、頼る?
……頼りたい……、頼りたいけれど――
「久我。俺は……、お前の事が好きなんだ」
「……っ」
心臓が、悲鳴を、あげたかと思った。
ばくばくと、私の意思とは関係なく早まっていく。
俯いたまま視線だけ少し上向けると、そこには課長の姿。
胸から下だけ、視界に映って。
その、スーツの裾に……その手のひらに、指を伸ばしたい――
私も、好き。
好きです、課長。
でも、人の心に、絶対なんてない。
その心が、変わらないことなんてない。
この世に、永遠に変わらないものなんて一つもない。
揺れる心を抑え込むように、右手でカーディガンの胸元を掴む。
きっと想いを告げたら、私は課長を縛り付けてしまう。
絆なんて綺麗なものじゃなくて。どろどろとした、真っ黒い心で。
いつか課長が私の元を去っていく時がきたら、もしそれが例え自分のせいでも……
私は、もう立ち直れない。
二度と、立ち直れない。
――ねぇ、決めたでしょう?
「課長」
込み上げてくる嗚咽を、懸命に抑え込む。
「……久我?」
「ごめんなさい」
今度はゆっくりと、課長に聞こえるように言葉を口にした。
滲みそうになる涙を、瞬きをしながら堪えて。
聞こえないように息をついて、顔を上げた。
そこには、怪訝そうな課長の姿。
まっすぐに、その目を見つめる。
「今までうやむやにしてしまって、本当にすみません。……私……」
昼の光景が、脳裏に浮かぶ。
「久我?」
「課長の気持ちには、応えられません。本当に、すみません」
一気に、言い切る。
最後は課長を見ていられなくて、目を伏せた。
力を入れていないと自分を支えていられなそうで、ぎゅっとカーディガンを握り締めた手に力を込める。
「……お前の……、本心か?」
課長の声から、少しも感情が読み取れない。
口を開くと押さえている涙が零れてしまいそうで、黙ったまま小さく頷いた。
「……そうか、分かった」
ふぅ、と息を吐く音が聞こえた。
課長が目の前に立ったのが、伏せたままの視界に映った。
ゆっくりと、まわされる両腕。
「それを言い出せなくて、悩んでいたのか。様子がおかしいと思っていたが……。食事も、ちゃんと取れていないんだろう?」
……ううん、そうじゃない。
課長を諦めることが難しくて、ずっと苦しんでたんだよ。
「……」
口には、出さないけれど。
さっきみたいじゃなくて、優しく包まれるその腕の中。
この瞬間が、ずっと続けばいいのに。
時間が、止まってしまえばいいのに。
小さい子を宥めるように、課長の手のひらが背中を軽く叩く。
「俺の所為で、身体を壊すことだけはしないでくれ」
なんで、そんなに優しいんだろう……。
好きって言われてたのに、曖昧にしてこんなに時間かかって。
あんなに迷惑かけたのに、今更、断ってるんだよ?
「お前は、俺の大切な部下だ。今日の夕飯は、ちゃんと食わせるからな?」
その言葉で、私の存在がどういうものになるのか、気付かされた。
大切な部下……
「……」
それでも言い聞かせるかのように紡ぐ課長の言葉に、小さく頷く。
心配されることが、幸せで。
そばにいられなくなることが、とても辛い……
課長は少し力を込めた後、その腕をはずした。
去っていくぬくもりと、抱きしめられていた感覚。
同時に、大切な人を自分で切った悲しさが襲ってくる。
「久我、こっち向け」
「……」
そう言われても、今動いたら涙が……
「……久我」
伸びてきた指に顎をとられて、顔が上向く。
目の前に、課長。
近い……
目を閉じる間も、なかった。
触れる、唇の温もり。
一瞬触れたそれは、もう一度ゆっくりと合わさって。
噤んだ唇を、柔らかい舌がゆっくりとなぞる。
以前、一瞬だけ触れた唇。
初めて、ちゃんと触れた課長の唇は、温かくて。
優しくて……
これが最後なんだろうな……なんて、そんなことが頭に浮かんで――
ゆっくりと離れて、いった。
私は、何もできず、ただ課長を見つめていた。
見開いた目から涙が零れたことさえ、気付かずに。
「悪い」
顎にかけていた指が頬に触れて、離れる。
課長の指が戻っていくのを、じっと目で追いながら――
その指の元、優しく微笑む課長と目が合って視線を反らす。
「また、あとでな。あまり無理するなよ」
それだけ言うと、課長は倉庫から出て行った。
がちゃん、と大きな音を立てる、安普請な鉄のドア。
倉庫だからか、窓もない。
外と、隔たったこの空間。
ドアの鍵を閉めると、そのまま床にぺたりと座り込む。
とうとう、言ってしまった……
とうとう、切ってしまった……
もう、私だけのタイセツナヒトはいない。
もう、ぬくもりはない。
両手で顔を押さえる。
零れていく涙と、抑えきれない嗚咽が部屋に鳴り響いて。
我慢していたからか、頭が真っ白になるほどの感情。
好き
好きです
私の……、私の大切な人――
いいよね? 今くらい。
思いっきり泣いても。思いっきり後悔しても。
どちらの道を選んでも苦しいのなら、どちらかでも幸せなほうがいい。
もう、自分が誰かの重荷になるのは嫌。
「……これで、よかったのよ」
口に出す。
さっき口にした言葉とは、正反対の感情で。
「これが、一番よかったの」
だから、泣いて。
泣きまくって。
泣きやんだら――
皆の前では、笑おう。
課長が、気にしないように。
皆の笑顔が、曇らないように。
そう――
何をしても辛いなら、せめて……
「せめて、笑顔で」
口端をあげて、笑顔を作る。
「せめて、笑顔で」
例えそれが貼り付けた笑みでも。
「せめて……、笑顔で――」
止まったはずの涙が、跡を残しながら頬を滑り落ちる。
課長の優しさが、苦しくて……苦しくて……
自分を消してしまいたくなる――




