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何を、聞かれるのか。
ラウンジに下りてきたって事は、込み入った話をされるわけじゃないとは思ってるけれど――
向かいの席では、紅茶のペットボトルの蓋を開けながら哲が私を見ているのが分かる。
多分哲は、私が何かを言い出すのを待っているんだと思うけれど。
しばらくそのまま二人とも口を開かなかった。
沈黙している私たちを怪訝そうに見る人たちが、表が暗くなってきたせいでガラス窓に映りこんでくる。
お互い口を開かないまま時間だけは経ち、どんどん空は暗くなっていく。
手にしていたカフェオレも、とっくに冷めていて。
紙コップ越しに、どれだけ時間がたったのかを私に伝える。
哲は、いつまで待つつもりだろう。
私が、口を開くのを。
その時、哲の携帯が着信を知らせた。
頬杖をついたまま、視線だけ哲に向ける。
メールだったのか、かちかちと返信する音を鳴らしてすぐにそれをしまった。
顔を上げた哲と、視線が絡む。
「……戻るか」
「ん……」
ただ、それだけ。
ラウンジに来て交わした言葉は、一言だけ。
連れ立って歩きながらも、私たちの間に会話はない。
戻った企画室は誰もおらず、私は何も言わずに自分の椅子に腰を下ろした。
哲はさっき脱いだコートと上着を羽織ると、鞄を手に持つ。
「俺、あと一件外回りあるから、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
手にした資料から顔を上げて、哲を見上げる。
哲はドアノブを掴んだまま、私を振り返った。
「美咲」
その声は、低く沈んだ声で。
「……何?」
思わず、少し掠れた声で言葉を返す。
「――分かった」
それだけ言うと私の返答を待たずに、ドアの向こうに消えた。
がちゃり、と響くドアの閉まる音に、肩が竦む。
え? 何が、分かったの?
哲に、何を気付かれたの?
忘れたって嘘をついていること?
もう、全てを諦めたってこと?
課長を、諦めること?
持っていた資料を机において、両手で頭を抱える。
というか――
「私が、諦められたのかな」
もう、付き合いきれないって。
心配させるだけさせて。
傷つけられるだけ傷つけられて。
それでもそばにいようとする、私、に愛想が尽きたのかな。
溜息をついて、背もたれに重心を寄せる。
それでも――、いっか。
その方が、哲にとっていいかもしれない。
私じゃない、外に目を向けられるなら。
それに……
いつ、課長に伝えよう。
告白の、答えを。
あなたのそばに、いることは出来ませんって。
あぁ、そうだ。それと――
携帯を手に、名刺入れを探る。
目当ての名刺を見つけると、番号を押した。
この時間に掛ければ、すぐに会うとか何とか言われなくて済むと思うし、丁度皆外回りで誰もいないし――
一つ一つ、終わらせていかないと。
数コールのあと、相手がでた。
{はい、久我です}
それは、嫌悪すら覚える男の声。
「はい、私も久我です」
それでも私のせいで幸せを奪っているなら、自分を押さえつけるよ。
携帯の向こうで、小さく息を飲む音が伝わる。
{美咲、か? その……ちょっと待ってくれ}
小さく周りに聞こえないような声で私を呼ぶと、どこかに移動したようだった。
{あの、美咲。この前は本当に、すまなかった。突然あんなことをして――}
謝罪モードに入った言葉を、途中で遮る。
「ううん、もういいよ。これだけは、言っておきたくて」
小さく息を吸う。
「私は、二人に幸せになって欲しいのよ。もう、私のことは本当に大丈夫だから、好きな人と幸せになって」
まくし立てるように早口で。
{美咲……}
「だから、もうあんなことはしないで。幸せになってね。――それだけ」
あくまで、笑んだ声で。
想像以上の言葉はあげられないけれど、これでも私にとっては、充分すぎる譲歩をしているんだから。
{美咲、一度でいいから……会っては貰えないか? 直接、話しては貰えないか?}
「それは、できない。私、あの時の記憶、ないことにしてるから。皆に心配かけてしまうし」
{そう……か}
気落ちした声。
「私には心配してくれる人たちが、いるから。私は大丈夫だから。お願い、自分の幸せを考えてください。……それじゃ」
そのまま切ろうとしたら、私の名を呼ぶ声に遮られた。
{美咲っ}
切羽詰ったような声に、離しかけた携帯をもう一度耳に当てる。
{――ありがとう}
「……ん」
今度こそ、本当に通話を切った。
携帯を両手で握り締めて、額に押し当てる。
知らず、力の入っていた身体が、小さく震えた。
「……ふ……ぅ」
わざと、声を出して息を吐き出す。
呼吸の仕方も忘れてしまいそうになるほど、動揺していたことに改めて苦笑を落とした。
これで、一つやらなきゃいけないことが終了。
おばさんには、哲が言ってくれたみたいだし。
とにかく私は――
「課長に、伝えないと……ごめんなさいって――」
携帯を机において、資料を手にキーボードを打ち始める。
いつ、言おう。
今の幸せに、いつ、幕を引こう。
しなくちゃいけないって分かってるのに、それでも手を出せない。
酷い女だな、私。
自分を守るために、どれだけ人を傷つければいいのか。
「課長、……怒るかな……。辛いな……」
そう呟くと、気持ちを入れ替えるように頬をぴしゃりと叩いて、キーボードに向かった。




