#098 その幻想に牙をむけ
今更ですが、本節から一部歴史上の人物に対するアンチ、ヘイト的な表現が見られます。
作者の妄想、偏見が含まれている事をご承知おきください。
天文24年(西暦1555年)7月 駿府 関口刑部少輔邸
夏真っ盛り、分厚い雲の向こうでは太陽が中天に差し掛かろうとしている、はず。
五郎殿との結婚からおよそ一年となるこの日、私は夫婦で関口殿の屋敷を訪れていた。
勿論二人っきりではなく、五郎殿が乗る馬の口取りや、私が乗る輿の担ぎ手、それぞれの近習や侍女、荷物持ちの下人に護衛まで加わり、ちょっとした行列になっている。
とは言え、今川家重臣である関口殿の屋敷は、駿府館からお公家様エリアを挟んですぐの所にあったため、移動にそれ程時間はかからなかったのだが、問題はむしろ関口殿の屋敷の門前に到着してからだった。
「富貴豪族、還財公民!」
「ふーきごーぞく、かんざいこーみん!」
「やめよお主ら、やめよ!退け、退かぬか!」
ボロボロの衣服をまとった人々が、ムシロ旗にスローガンを書いて人垣をつくり、行列の進行を妨害して来たのである。必死に彼らを押し留め、進路を確保しようとしているのは、どうやら関口邸の警固役のようだ。
正当な理由なく武士の通行を妨害するとか、その場で斬り殺されても文句は言えないはずだが、屋敷の警固役が刀を抜かない所を見ると、彼らは恐らく関口家の――より厳密に言えば瀬名殿の庇護下にあるため、迂闊に手が出せない、という事だろう。
ではなぜ私達の護衛達が斬りかからないのかと言えば…。
「お主の申した通りであったのう。」
行列の前の方から私が乗る輿に馬を寄せた五郎殿の言葉に、私は簾から僅かに顔を出して頷いた。
『富貴豪族、還財公民』…金持ちは財産を庶民に返せ、という、この時代にはあまりにも前衛的過ぎるスローガン。
関口邸の周りに住み着いた無宿人達が、例の怪しいお坊さんの扇動で、近現代のデモ行進みたいな事をしているとの情報は得ていた。だからこそ、今回の関口邸訪問に随行するメンバーには、挑発したり、からかわれたりしても、決してこちらから手を出さないように、ときつく言い含めておいたのだ。
本来ならば、侮辱されて報復しない侍は腰抜け腑抜けの烙印を押されかねないが、ここは関口邸の正門前だ。治安維持の責任は関口家の警固役にある。彼らには気の毒だが、ここは距離を保って静観させてもらおう。
…しかし思いの外鎮圧に手間取ってるな。
次の手を打つべきか思案していると、私と五郎殿の側に近寄る気配がした。
「警固役五番隊隊長、赤羽陽斎。恐れながら申し上げます。」
白地の裃の、右袖を紅に染めた装い。地べたに片膝を突き、頭を垂れるのは、私が輿入れした後に足軽待遇で迎え入れられた警固役の一人、赤羽陽斎殿だった。
輪番表では五番隊は今日は休みだったのだが、関口邸訪問という重大事に参加させてほしいと、臨時報酬と引き換えに警固の列に加わってくれたのである。
「それがしに一貫文をお授けくだされば、目の前の人垣をたちどころにどかせて見せまする。いかがにございましょう。」
一年前、並み居る浪人達の中から卓越した才覚で五番隊隊長の座を掴み取った陽斎殿の進言に、馬上を見ると、五郎殿は快く頷いた。
「うむ、やってみよ。銭が入っておる長持は分かるな?そこから持って行くがよい。」
「有難き仕合せ。では、早速。」
陽斎殿が立ち去ってしばらくすると、曲がり角の向こうから、大量の銭が地面に落ちるチャリリリリン、という音が響いた。
「大変だあ!銭が散らばってらあ!百文…いや、一貫文(千枚)はあるぞ!」
その言葉に、高尚なスローガンを唱えていた人々はムシロ旗を投げ捨て、銭の音がした方に向かって一目散に走っていく。
呆然と見送る関口邸の侍達に、五郎殿が馬を進めると、我に返った彼らは、慌てて正門を開き、私達を迎え入れた。
やや早足で一行が敷地内に入ると、門番が慌ただしく正門を閉じる。
簾を持ち上げて後方を確認した私は、右袖を紅に染めた侍が最後尾にいる事を確認して、ほっと息をついたのだった。
「若君様、若奥様、本日はよくぞ我が屋敷にお越しくださいました。」
関口家現当主、刑部少輔殿の挨拶に、私と五郎殿は揃ってお辞儀を返した。
すでに関口邸の客間に通され、二人並んで上座に座っている。
下座には刑部少輔殿、その後ろに娘の瀬名殿と紫吹殿の姉妹、それに関口家でお世話になっている太助丸兄者と、松平竹千代殿が並ぶ。紫吹殿を除く全員が、私より年上だ。
ちなみに、刑部少輔殿の奥さんがいないのは、私が嫁いで来る前に亡くなっているためだ。
「刑部少輔よ、そなたの心遣い、痛み入るぞ。」
「私からも、お礼を申し上げます。」
五郎殿に続いて社交辞令を述べつつ、私はさり気なく客間の様子を探った。
何というか…地味。貧相。義元殿の私室のような、渋好みとかいうレベルじゃない。高級な装飾品がまるで見当たらず、床の間が寂しい限りだ。
服装もそうだ。刑部少輔殿はともかく、関口家の人々の衣服をよく見ると、何だか町人みたいな安っぽい質感が見え隠れする。
総じて、とても今川家重臣の客間とは思えない。
「何はともあれ、まずは膳をお持ち致します。ご存知の通り、拙者は妻を亡くしておりますゆえ…本日の台所の差配は、長女、瀬名が務めましてございます。」
「瀬名にございます。若君様、それに若奥様におかれましては、ご機嫌麗しゅう…。本日は新鮮な魚の切り身をご用意致しました。どうか思う存分、お召し上がりくださいませ。」
魚は避けるか、火を通して出せってリクエストしただろ。
瀬名殿の、現代日本でも通用しそうな極上の美少女スマイルに精一杯の愛想笑いを返しながら、私は心中で毒づいた。
これは思った以上に話の通じない相手かも知れない。
食器をガチャガチャ言わせながら料理を運んで来る侍女達を見ながら、私はこれからやらなければならない事に思いを馳せ、こっそりとため息をついたのだった。
結論から言うと、私達は瀬名殿が用意した本膳料理を、何とか完食する事が出来た。
三か月前、今川水軍の視察で魚の刺身という弱点が明らかになった五郎殿に、何とか生魚を克服してもらおうと努力してきたかいがあった。厳密に言うと、色々な調理法を考案したり、食材の切れ端やら何やらを工夫してまかない料理に再利用したりしていた、厨人のみんなのお陰だが。
ある日たまたま厨をのぞいたら、酢飯に魚の切り身の端っこを混ぜて食べていたのを発見した時は、本気で神様仏様のお導きかと思った。要するに、私が何か前世知識を吹き込むまでもなく、彼らは創意工夫で、散らし寿司の原型を完成させてしまっていたのだ!私は喜びのあまり、今後は正式に献立に加えてほしいと言って、その場で臨時ボーナスを支給してしまった。
厨人のみんなは、大事な食材や調味料をちょろまかしていた事を怒られると思ったみたいだが、そんなのは毎朝毎晩何十人分もの食事を用意してくれている苦労を思えば全く問題にならない。食材の切れ端とか、食べないで捨てるのも勿体無いし。
それ以来、一か月に一度か二度の間隔で厨から新作料理の味見を頼まれるようになったのだが、それはさておき。
その『散らし寿司』のお陰で、五郎殿の生魚への苦手意識が弱まったとは言え、当人も大好物ってほどじゃないんだから、今日の献立は焼いた鳥肉や焼き魚を中心にしてほしい、と関口家の使者には伝えたはずなのだが、どこかで情報が正しく伝わらなかったようだ。
私は瀬名殿の評価を一段階下げた。ついさっき刑部少輔殿が言った通り、今日の献立に関する責任は瀬名殿にあるはずだからだ。
しかし、その瀬名殿はと言えば、私達が満足したと信じて疑わない様子だった。
「いかがでしたでしょうか。心を込めたおもてなし、ご満足いただけましたでしょうか。」
「う…む。味は悪くなかった、しかしのう…。」
五郎殿が言葉を濁したにもかかわらず、瀬名殿の笑顔が崩れる気配は無い。
むしろ父親の刑部少輔殿の方が、娘の失態を察してか、顔を強張らせている。
「器がどれも素焼きの土器、飯も米のみならず、雑穀が多く混ざっておるようじゃが…これはいかなる趣向かのう?」
おかずの数量が充実している点を除けば、下級武士、下手すると百姓農民と同等のお膳立てだ。はっきり言って、未来の主君にお出しする内容じゃない。
「はい。此度は若君様に、百姓農民の苦労を知っていただきたいと思い、このように。」
「それは。」
瀬名殿の発言に、私は素早く反応した。
ここから先は私が瀬名殿を追及しなければならない。
そんな確信があった。
「それは、五郎殿が百姓農民の苦労をご存知ないと、そう仰りたいのですか、瀬名殿?」
私の詰問に、客間に緊張が走った。瀬名殿もさすがに表情を引き締める。
だが、続く回答は、ある意味では私の予想通りであり、同時に私を脱力させるものだった。
「その通りにございます。田畑を耕す農民から年貢と称してお米を取り立てる領主。己はお米を作らずして売り買いのみで富を築く商人。お米を食い散らかし、戦に明け暮れる侍。万念様の仰る通り、皆道を踏み外しておられるのです。」
私は今すぐ頭痛薬を飲んで布団を引っ被りたい気持ちで一杯だった。
薄々感じていた事だが、瀬名殿と私は、いや、この戦国乱世を動かすシステムは致命的に噛み合わない。一刻も早く怒鳴りつけてやりたいが…まだ早い。
「私共が道を踏み外している、とは…面白い事を申されますね。子細をお伺いしてもよろしいかしら?」
落ち着かない様子の五郎殿を横目に続きを促すと、瀬名殿は再び微笑んで、『万念様』のありがたい教えとやらを語ってくれた。
「万念様は、わたくしに乱世を収める術を教えてくださったお方です。そもそも田畑は全てそれを耕す百姓農民のもの。それを公家や武家、強欲な寺社が力ずくで我が物とし、年貢を取り立てている事がまず間違いである、と。そして、百姓農民が苦労して作ったお米を、売りさばいて銭に変え、富を蓄える商人も、罪を重ねるばかりであると。」
「それと乱世を収める術が、どう関わって来るのでしょう?」
久しぶりの強烈なストレスに、思わず爪を噛んでしまいそうになりながら、私は努めて冷静に聞き返した。
瀬名殿は私の内心に気付いた様子もなく、我が意を得たりとばかりに、得意気に続ける。
「なにゆえ日の本の人同士が相争い、傷つけあわねばならないのでしょう。これ全て、百姓農民から土地を取り上げた領主達が、より多くの土地、財産を欲するがゆえにございます。さすれば、日の本中の武士、公家、寺社、商人が刀を捨てて銭を配分し、領地を百姓農民に返し、共に田畑を耕して助け合えば、日の本より戦は無くなります。」
断言した瀬名殿に、私は拍手を送ろうとして、戦国時代にそんな風習が無かった事に気付いて自重した。
彼女の言いたい事は大体分かった。つまり、農民の上前をはねている権力者や、そのおこぼれにあずかっている商人が、特権を放棄して農民になれば、平和で平等な世界がやって来る、という訳だ。
なるほどなるほど。
素晴らしい。
全て間違っている。
「刑部少輔殿。」
私が名前を呼ぶと、刑部少輔殿は脂汗を滴らせながら、私に向かってお辞儀をした。顔色は悪いが、その目はぶれる事なく私を見つめている。
私は一度、大きく深呼吸した。
瀬名殿が思い描く美しい世界を、その幻想を、根底から否定するために。
「今川の次期当主の妻として申し伝えます。」
さあ、大勝負の始まりだ。
「松平竹千代殿と、瀬名殿との婚姻を無かった事に。瀬名殿は出家していただいた方がよいでしょう。」
お読みいただきありがとうございました。




