#100 時には昔語りを
ついに第百話まで到達する事が出来ました。
これもひとえに、拙作を閲覧し、評価、感想をくださる読者の皆様のお陰です。
今後とも拙作をよろしくお願い致します。
※2023年7月22日現在、#008において誤字報告をいただいております。
文章の前後関係と合わせて考えるとご指摘の通りなのですが、客観性と主人公の主観とをどう擦り合わせるべきか勘案した上で修正させていただきます。
ご指摘誠にありがとうございました。
関口家の問題が一応の解決を見た数日後、私はまたも五郎殿と、とある邸宅にお邪魔していた。
「どうぞ、冷めない内にお召し上がりを。」
そう言って点てたばかりのお茶を差し出したのは、屋敷の主、寿桂様である。席の配置はいつもの上座下座ではなく、部屋の一方で寿桂様がお茶を点て、もう一方に私と五郎殿が並んで座っている。
いつもなら私だけ、寿桂様の使者に迎えられてお伺いする所を、今日は特別に、五郎殿も招待された。
そこでこうして寿桂様の私室まで招き入れられ、お茶をご馳走になっている所である…のだが…見間違いだろうか、茶碗が一つしかない。
「では、儂から…ん、結構なお手前にござる。」
優雅な所作で茶碗に口を付け、中身を飲んだ五郎殿が、その茶碗を私の前に置く。漆塗りのように艶やかな、黒い唐物茶碗だ。
その中にお茶が漂っており…そうだ、忘れてた。親しい間柄の人同士でお茶を飲む時は、回し飲みするのがマナーだった。
つまり、五郎殿とか、か、か、間接キ、キキキキ、キスを…!
「どうかしましたか?」
「い、いえ、何も。…頂戴致します。」
懸命に平静を装って、茶碗に口を付け、残りを少しずつ、かつ一口で飲み干す。
…ちょっと甘い味がしたような気がしないでもないような…。
「お二人とも、此度は関口刑部少輔殿の事、よくぞ取り計らってくださいました。」
私が空になったお碗を置くタイミングで、寿桂様が軽く頭を下げた。
ピンク色に染まっていた脳内が――完全にとは言えないが――引き締まる。
「刑部少輔殿はお咎めを受ける事なく、今後も太守様のお傍に仕える事が出来ます。瀬名殿と竹千代殿との婚儀も、取り決め通り年明けに執り行われるでしょう。関口家の周辺から無宿人を一掃し、関口家の台所を立て直す目途も立った。文句の付けようもありません。」
「いいえ、太守様と寿桂様の後ろ盾があればこそ。」
浮かれそうな気持ちを抑えて、私は言った。
万念僧侶の指名手配に――実行せずに終わりはしたものの――瀬名殿の所領の替地の用意や、竹千代殿との婚約破棄などの措置は、今川家の実権を握っている義元殿の協力なしには不可能だった。
幾ら瀬名殿を糾弾する証拠が揃っていた所で、実際に処罰する強制力が無ければ、小娘がキャンキャン吠えただけで終わってしまう。戦国乱世なら尚更だ。
「…そうですか。あなたがそう申すのであれば、わたくしもそれを認めましょう。」
「時に、寿桂様。瀬名殿はなにゆえかような振る舞いに及んだのでございましょう。刑部少輔が止めなかった事も、気にかかりまする。」
五郎殿の質問に、寿桂様はしばらく沈思黙考した。
「答えましょう。…わたくしにも、幾分か負い目のある事ですから。」
この世界に、現代的な意味での『学校』は存在しない。何が言いたいのか、と言うと、剣術や仏門といった例外を除いて、一定の資格や免許を認定してくれる組織や機関が存在せず、技能を身に付けるためには、その道の先達に個別に教えを請うのが一般的だという事だ。
それは花嫁修業についても言える事だ。高貴な家に産まれた子女は、実の母親や親族の女性、主家の妻などから指導を受ける。私も通った道だ。
だが、瀬名殿が通った道は、私のそれとは少々事情が異なっていた。妹の紫吹殿を産んだ直後、瀬名殿の母君、つまり関口殿の妻が早逝してしまったからだ。
関口殿は今川家での公務があるため、頻繫に娘の様子を見る訳にもいかない。しかも、私が輿入れするまで名実共に今川家の奥向きを取り仕切っていた寿桂様は、実子を相次いで失って以降続いた不幸から、表に出る事を避けていた。
詰まる所、瀬名殿は母君を亡くして以来独学で知識を身に付けており、しかも教材が不適切だった可能性が極めて高い、という訳だ。
「…耳が痛いのう。儂も結に目を覚まされるまで、凡愚の極みであったゆえ…。」
沈痛な表情の五郎殿に、何と言えばいいものか。迷う私の耳に、寿桂様の咳払いが響いた。
「此度の仕置、瀬名殿にはいい薬になった事でしょう。竹千代殿との婚儀を終えた後も駿府で暮らすのですから、近々わたくし手ずから稽古を付けねばならないやも知れません。」
「きっと瀬名殿の助けとなりましょう。されど、寿桂様のお体が…。」
次の瞬間、寿桂様のギョロ目が私を捉えた。
「何ですか。瀬名殿の稽古でわたくしが多忙になれば、あなたの稽古が減るとでもお思いですか?」
「い、いいえ!左様な事は、全く…!」
寿桂様の健康を気遣った積もりが、逆に怒らせてしまった。
対人コミュニケーションの難しさを改めて痛感していると、寿桂様は目をつぶって深々と息を吐いた。
「…少し、言い過ぎました。ですが、わたくしの事を気に掛ける必要はありません。先だって申し付けた通り、あなたはいずれ今川の妻として、奥向きの一切を取り仕切らねばなりません。いずれかの夫婦に不和は無いか、縁組に不都合は無いか…誰に言われずとも、進んで調べ、争い事を未然に防がねばならないのです。」
うっ、マジか。今回みたいなのをしょっちゅうやらないといけないのか…。
「ですが。」
大大名の妻の仕事が、思った以上に大変そうである事に内心ビビり散らかしていると、寿桂様は何か言おうとしてやっぱりやめる、といった感じで、口を開け閉めしてから言った。
「下調べに手落ちも無く、仕置に手心を加える事も無かった。わたくしが口を出すまでもなく。あなたならば、きっと…きっと、つつがなく、今川を支えてくれるでしょう。」
寿桂様が遠回しに私を褒めてくれている事に気付き、顔がニヤつきそうになるのを必死で我慢していると、寿桂様はこの間と同様に、近くに置いてあった箱を取り寄せて、私達の前に置いた。
「遅くなりましたが、お二人の婚礼より一年となるを祝して、祝いの品を贈らせていただきます。どうぞお納めを…。」
「これはかたじけない。中を検めてもよろしゅうございますか。」
五郎殿が、寿桂様が首を縦に振ったのを確認してからフタを開けると、中には扇子が二本、並んで入っていた。
「ほほう、これはこれは…広げてみても?」
またも寿桂様が頷くと、五郎殿は私に目配せしてから扇子の一方を手に取った。やや大ぶりな方だ。
私はやや小ぶりな方を手に取り、五郎殿に続いて慎重に開く。もらったばかりの扇子を、いきなり傷物にしたら問題どころじゃない。
扇子には上質な厚紙が用いられ、うっすらと染められていた。五郎殿の方が緑色で、私の方が薄紅色。
絵柄は同じだが、五郎殿の方は新緑生い茂る枝のように、私の方は紅葉を迎えた枝のように見える。
しかも、光の当て方を調節すると、うっすら別の模様が浮かび上がってくる仕掛けが施されている。『足利二つ引両』と『三つ鱗』、今川と北条の家紋だ。
五郎殿の方を見ると、彼も仕掛けに気付いたらしく、私に微笑みながら扇子をヒラヒラと振った。
そうしてしばし五郎殿と見つめ合っていた私は、寿桂様の事がふと気になって視線を前に戻した。すると寿桂様は、片袖で顔を隠したまま体を小刻みに震わせており、若干の嗚咽を漏らしていた。
「じゅ、寿桂様?何か、お気に障る事でも…?」
私が声をかけると、寿桂様は鼻をすすり、急いで身繕いをした。
「失礼。お二人を見ていると…早雲寺殿と得願寺殿を思い出してしまい…。」
早雲寺殿は分かる。北条早雲…生物学的には、私のひいお祖父ちゃんに当たる人物だ。
けど、得願寺殿って…?
「恐れながら寿桂様。得願寺殿とは、儂のひいお祖母様の事では…?」
五郎殿の言葉で、ようやく話が繋がった。得願寺殿…北河殿は、北条早雲の姉で今川氏親の母親だ。
しかし考えてみると、北条家初代(早雲)と今川氏親の母親が姉弟、北条家三代目当主(氏康)とその妻が又従兄弟、今川氏親の孫(五郎殿)とその妻(私)が従兄弟って…現代日本だったらまず有り得ないだろう。
それはさておき。
「ええ、その通りです。今のあなた方を見ていると、つい…。」
「よろしければ、お聞かせ願えませぬか。早雲寺殿と得願寺殿の事。これも我らへの餞と思うて…。」
五郎殿が懇願すると、寿桂様はややあって、ゆっくりと頷いた。
「しばしお待ちを。昔語りの前に、今一度茶を点てとう存じます。」
やがてお茶を点て終えた寿桂様は、再び茶碗を五郎殿の前に差し出し、ポツリ、ポツリと話し始めた。
「あれは、早雲寺殿が駿府まで挨拶に参られた、最後の正月の事でございました。」
次回はリクエスト募集の結果採用させていただいた内容になります。




