90 閑話〜領地でのシェルダン1
フェルテア大公国へ出立するバーンズらと聖女クラリスを見送ってから、シェルダンは皇都グルーンを出て領地へと向かう。
旧アスロック王国東部、現在でもラルランドル地方と呼ばれる場所だ。
(さすがにもういいだろう)
自分の仕事は聖女クラリスを魔塔攻略のため、送り返すところまで。それが済んだ以上、長期の休みを、上司のアンス侯爵や皇帝シオンが呑むのは当然なのだ。
(やはり、皇都は知らないうちに、息が詰まる)
かつて勤めていたドレシア帝国西部の都市ルベントで一泊し、さらには国境も越えたあたりで、気持ちが沸き立つ自分にシェルダンは気付く。
一人旅である。気楽なものだ。
やがて家族に会えるというのも嬉しい。
ゲルングルン地方の森を抜けると、肥沃な平原に出る。小高い丘に上って見下ろすに、畑が目立つのだった。
(これが、本来のラルランドル地方だ)
シェルダンは思うのだった。
瘴気にまみれてもいなければ魔物も徘徊していない。かつてアスロック王国にあって、平穏な時代には、食を支える穀倉地帯だったものだ。
「さて、あとは我が家だ」
嬉しい気持ちのままにシェルダンは呟く。
シェルダンの領土ビーズリー子爵領もラルランドル地方の一画にある。妻であるカティアの尽力によって、順調に運営されているようだ。
(俺には、過ぎた奥さん過ぎる)
1000年続くビーズリー家にあって、カティアほどの女性と結婚出来た果報者は、自分以外にはいないだろう。
一人、内心でシェルダンは惚気るのだった。
やがて、領地の端を流れる小川へと至る。後はこの橋を越えれば領地というところ。
「シェルダンッ!おかえりなさいっ!」
つばの広い帽子を被ったカティアが手を挙げて呼びかけてくれる。
なぜだか全身黒い甲冑姿の男が一緒だ。副官のデレクである。旧王都アズル近くを旅行するとのことで先触れを買って出てくれたのだった。
(助かる)
治安の良いドレシア帝国内の、治安の良い領地ではあるが、カティアの一人歩きはシェルダンにとってはあまりにも心配だ。ついでに護衛をしてくれたらしいデレクにシェルダンは頭を下げる。
「カティア、ただいま!」
シェルダンも笑って紺色の髪の、美しい妻に応じる。ドレシア帝国人には紺色の髪色が多いのだった。
カティアへと駆け寄る。そして、シェルダンはそのまま華奢な身体を抱き締めた。
「いつもお疲れ様」
カティアが背中へと手を回し、ポンポンと労うように叩く。耳元での囁き声すらもシェルダンには愛おしい。
「君の方こそ」
シェルダンも耳元で囁き返す。
軍務に集中していられるのはカティアのおかげだ。
出世したことのないビーズリー家には、領地経営のノウハウなどない。
そこを補い、かつてない収入をカティアが上げてくれているのだ。シェルダン自身もその恩恵に浴していて、次代への蓄えに回している。
「あなたの帰る家と場所だもの。一緒に隙あらば楽しく暮らすの。守るのは当然で、帰ってきてくれたら少しでもくつろいでほしいもの」
そっと身を離すと蕩かすような笑みをカティアが浮かべていた。
「それに、大した苦労もないわ。あなたの機嫌を取るためか損ねたくないのか。こんな治めやすい、良い領地をシオン陛下はくださったのだから」
白いブラウスに紺色のロングスカート姿のカティアである。いつも上品で優雅な物腰を崩さない。
シェルダンは目を奪われてばかりなのだった。
「俺がしようとすると、頭が破裂してしまうよ」
もう一度、抱き締めたい衝動を抑えてシェルダンは告げた。抱き合ったまま、いつまでも屋敷にたどり着けなくなってしまう。
それではいつまで経っても可愛い娘と息子に会えないのだ。
「嘘ばっかり。いつも私からの報告書、きちんと目を通していて、頭に入れてくれてるじゃないの」
ころころと笑ってカティアが言う。さらには横に立って、甘えるように腕を絡めてきた。歩こうということだ。
「それは、君からの恋文みたいなものだからね」
詳しく書いてあればあるほど、シェルダンはカティアからの誠意と愛を感じてしまうのだった。だからつい、得意分野でなくとも読んで頭には叩き込んでしまう。
「まぁ」
カティアが自分を見上げて目を瞠る。
「そんなこと言われちゃうと、もっと頑張らなきゃって、思っちゃうわ」
更に笑って告げる。
素直にはシェルダンは頷けない。これ以上、この妻は何を頑張ろうというのか。既に頑張りすぎなのだと危惧しているくらいなのだから。
「君はもっと、自分を大事にしたほうがいい」
シェルダンは愛おしさのままに言う。
領地運営だけではない。屋敷の使用人の運営から子供たちの世話に教育まで、全てに手を出して、全てをつつがなく進めているのだから。
「その言葉は、そっくりそのまま貴方にも返してあげる。あなただって、国中を飛び回って、頭も使って。身体を壊さないか、いつも心配だわ」
カティアにしっかりとやり返されてしまう。
シェルダンは照れて頭を掻く。
「あんたらが疲れてるとこなんて、想像もつかねぇや」
そう言えば同行していたデレクがボヤくのだった。




