63 教練書は分厚い
シャットンが聖山ランゲルから帰還した。いろいろな意味で、聖女クラリスはホッと胸をなでおろす。他国の皇城で独り、肩身がただでさえ狭かったところ、連日、リオルの来訪を自力であしらわなくてはならなかったからだ。
(当然、無事も嬉しいのだけど)
疲れ切った顔のシャットンを出迎えて、クラリスは安堵するのだった。
自分が借り続けている客室にシャットンを招き入れ、今は向かい合って椅子に座る。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません。聖山ランゲルを経由してきたもので。しかし、成果はありました」
シャットンがドスン、と重たい音とともに分厚い冊子を卓上に置く。
「これは?」
表題も何も無い黒い厚紙を表紙とした冊子を前に、クラリスは首を傾げる。
「神聖魔術の教練書です」
シャットンが端的に答える。負傷などはないらしい。それでも帰還は当初、予定として言われていたのよりも遥かに遅れていた。
(しかも、なんで聖山ランゲルから?)
疲れ切った顔のシャットンを前に、クラリスはもう一度、首を反対側に傾げた。
「では、シェルダン・ビーズリー殿が協力を?」
それでもこれで始められる。クラリスは次第に沸き立つ気持ちを抑え切れず、声を弾ませてしまう。
シャットンがぎこちない笑顔を見せた。
「それなら、聖山ランゲルを経由してくるのは、変だもの。何かあったんですか?」
シャットンの返答より先に、クラリスは自分の発した問に更に疑問を重ねてしまう。
「ええ、それは。シェルダン殿はやはり協力的とは言い難く。深く聞かないでください。とりあえず教練書を手に入れてくるのが精一杯でした」
深々とため息をついて、シャットンが言う。
質問を拒む雰囲気が全身から漂ってくる。
(じゃあ、この教練書は大神官レンフィル様が?シェルダン殿はやっぱり、ご自身での協力は拒んで。それで、代わりに聖山ランゲルを?)
だが、大神官レンフィルもさほど協力的ではなかったことを、クラリスは思い出す。
(シェルダン・ビーズリー殿も、仏頂面で、考えが読めなかったけど、取り付く島もなかった。やっぱり大神官様が?)
クラリスの思考はシェルダンなのか聖山ランゲルなのか、行ったり来たりを始めてしまう。
(いずれにせよ、なんでシャットンさんも言ってくれないのかしら)
結局のところ、クラリスには結論が出せないのであった。
「クラリス様、まずこちらのとおりに修練を続ければ、神聖魔術の基礎から身につけられると、大神官レンフィル様からお墨付きを頂いております」
シャットンが力づけるように言う。
クラリスは分厚い教練書を一瞥する。まるで辞書のような、いかにも重そうで持ち上げることすら憚られるほどだ。
(確かに凄そうな教練書だけど)
ハラリと1ページめくってみる。綺麗で小さな字が、びっしりと紙面に並んでいた。
くらくらする頭とともに、更にめくり続けると、時折、申し訳程度に図面も添えてある。だが、まだ何を説明するための図面なのかすら分からない。
「これは、でも、どれだけ時間がかかるかしら。凄い量だわ、目を通すだけでも丸一日かかりそう」
思わずクラリスは弱音を吐いてしまう。
読むだけではない。記載されている技術を独学で自分のものとしなくてはならないのだ。
「クラリス様らしくないですね」
シャットンが珍しく厳しい目を向ける。
「逡巡する時間があるなら、眠る時間を惜しんででも、少しでも早く、これを読み進め、神聖魔術を覚えるべきではありませんか?」
もっともなことをシャットンが言う。若干の苛立ちも見せた。自分の意気を汲んで、わざわざ骨を折ってくれたのだから、当然の反応かもしれない。
確かにフェルテア大公国の人々は、今も魔塔の魔物に苦しめられているのだ。
「そうですね、こんな教練書の厚さぐらいで、くじけてはだめですよね」
クラリスは膝に拳を置いて告げる。
「今までは、どうしたらいいかすらも分からなかったんですもの。やるべきことをシャットンさんが持ってきてくれたんだから。やります、私」
本当は自分自身でシェルダンに直談判するべきだったのではないか。
ただ無為に待っている間、ずっとクラリスは反省し、悶々としていたのであった。
「そう、仰っていただけると、私も苦労した甲斐がありますよ」
ホッと安心した顔でシャットンが言う。やはり兄のように頼りになる男性なのだった。
「はい、ごめんなさい。いつも、助けられてばかりです、私」
クラリスは縮こまりつつも、細い指で教練書のページをめくる。
なぜ、元他国人のシャットンが自分を助けてくれるのか、疑問に思うことがないでもなかった。人柄、剣術の腕前、ともに申し分ない、としてフェルテアの聖教会が見つけてきてくれた人物である。更には金銭欲に乏しく、大した給金を求めないことも決め手となったらしい。
(国費のほとんどをミュデス様が抑えていたものね)
自分の護衛ですらも、聖教会自身が雇うしかなかったのだ。
「いいのです。フェルテアの人々のためですから」
そこはさらりと素っ気なく、シャットンが言うのだった。
もう一つ、フェルテア大公国の聖教会にとって安心できる材料は、シャットンにクラリスへの恋愛感情が一切無いことだ。
常に自分を守って、張り付いていたので仲を勘繰る者も多かったのだが。
「それでも、フェルテアの人々の代わりに、私がシャットンさんにお礼を申し上げたいです」
クラリスは微笑んで告げる。シャットンには自分もありのまま、温かな気持ちで言葉を発することが出来た。
「同じ誤りを繰り返したくないだけです。一度は誤りを仕出かした人間ですから」
シャットンがまた自分に厳しいことを言うのだった。
「だから、クラリス様に限らず、誰かから礼を仰っていただくことではないのです」
誰がシャットンを心底から笑顔に出来るのだろうか。ちらりとクラリスは考えてしまう。
(でも、多分、それは私じゃない)
聖女である自分に対して、シャットンが一線を引いていることは、接しているだけによく分かるのだった。
いつも作った笑顔を貼り付けている。そんな印象だ。
「では、失礼します」
話が終わったと感じたのか。シャットンが客室を後にする。
シャットンの背中が閉まる扉で見えなくなるなり、クラリスは教練書を早速読み始めた。
『日頃の祈りを怠っているなら、何も祈らない者に修得出来る技術ではないことを先に記しておく』
最初にいきなり書かれていた文言に、クラリスは頭を抱えたくなった。
自分はフェルテア大公国を離れて以来、聖教会へ赴き、祈りを捧げることが出来ていない。
(どうしても、それどころではないような気がしちゃって)
外出すらも憚られる中でクラリスは、自室で祈るに留めていた。
だが、読み進めていく内に安堵する。
(あぁ、あくまで心の中で、でもいいのね)
いつもフェルテア大公国の人々の、無事を祈り続けてきた。
『他者を助けたいと思い続けることが肝心らしい』
淡々と綴られている言葉を一つ一つ追っていくことに、クラリスは没頭していくのであった。




