44.戦闘態勢、謎の美女(2)
「どうなさったの? お納めくださいな」
男爵令嬢の言葉に、デニス先生は再び頭を振る。
「受け取れません」
「報酬なしではアリッサ嬢を雇うことができないのではなくて? それとも彼女は先生のためなら無償で力を貸してくれるのかしら。だったらその理由が知りたいわ」
(なんなんだろう、この空気)
頭が混乱する。
不穏な会話に自分の名前が頻繁に登場する意味がわからない。
デニス先生が溜め息をつき、立ち上がった。
「私が考える以上に病状は深刻なようです。あなたともあろう御方が、ここまで話が通じなくなってしまうとは。アリッサ、お暇しよう」
「先生、でも」
一見健康なバウマン男爵令嬢は病気だってこと?
「お暇しよう」
「は、はい!」
同じ言葉を繰り返し、足早に出口へ向かう背中を、ポンポンが入ったバスケットを抱えて追いかける。
「お待ちなさい、アリッサ・エルツェ」
バウマン男爵令嬢の鋭い声がとんだ。
(えええ、どうしてわたし!? しかもフルネーム!)
「なん、でしょう……?」
おそるおそる振り向く。
ベッドから立ち上がったバウマン男爵令嬢と真正面から目が合った。
見据える黒い瞳。
強くて、真剣で、だからこそ怖い。
でも、なぜだろう。その眼差しは清廉さに満ちている。
「あなたには婚約者がいるそうね。しかも名のある貴族の」
しっかりした足取りで歩み寄りながら、バウマン男爵令嬢が問うた。
「……はい」
「そんな人が、どうしてこんないかがわしい医師の診療所で働いているの?」
「いかがわしい……シュターデン先生のことでしょうか?」
「そうよ、将来を嘱望されながら宮廷を飛び出した変わり者のシュターデン医師。彼の助手として働く必要が、あなたにある? お金には困っていないはずよ。怪しげな仕事で得た報酬で何をするつもりかしら。まさかリーンフェルト家の財産に手をつけようなんて思ってはいないでしょうね?」
「あの、お言葉ですが」
思わず口を挟んで、すぐに後悔した。でも、もう遅い。
バウマン男爵令嬢が、挑むように顎を引く。
「……どうぞ、続けて」
「お、お言葉を返すようで恐縮ですが、シュターデン先生はいかがわしい人なんかではありません。貧しい人や子供たちの力になってくださる、立派なお医者さまです」
「アリッサ、いいから!」
焦った口調でデニス先生が囁く。
バウマン男爵令嬢の眼差しが、ますます尖った。
「熱烈な擁護ね。まるで恋人だわ。それを聞いて、あなたの婚約者はどう思うかしら」
「……え?」
「私は不実な人間が大嫌いなの。あなたは自分の夫になる人の名誉を汚す行いをしていないと言いきれる? 私の目には、そうは見えない。社交の場に顔も見せず若い医師のもとに入り浸るなんて、恥を知りなさい。利用されているリーンフェルト侯爵が哀れだわ」
言葉のナイフで胸を刺された気分だった。
事情を知らない人には、そんなふうに見えているんだ。
「バウマン男爵令嬢、彼女はあくまで助手として」
「私はアリッサと話しているの、邪魔をしないで」
間に入ろうとしたデニス先生をぴしゃりと撥ねつけて、男爵令嬢がわたしを睨む。
たしかに、貴族の婚約者がありながら市井で(しかも若い男性医師の診療所で)働くわたしは異質な存在だと思う。もしかしたら、社交界で噂になっているのかも。
バウマン男爵令嬢は、きっと純粋な女性なのだ。
だからこそ、わたしに嫌悪感を抱いている。
(……わたし、自分のことばかり考えてた)
偽装婚約という間柄に甘えて、シルヴィオさんの迷惑なんて少しも顧みなかった。
こうして指摘されるまで、気づくことができなかったなんて。
黙りこんだわたしの正面に、バウマン男爵令嬢が立つ。身長が高い彼女に見下ろされる格好だ。
「言いたいことがあるなら聞くわよ。アリッサ・エルツェ」
強い口調、背筋の伸びた美しい姿勢。やっぱり、病人とは思えない。
デニス先生と、誰よりわたしに物申したくて、この場を設けたのではという疑念が頭をよぎる。
初対面の相手に、いきなり感情をぶつけられることに戸惑っていた。
理不尽さを感じないといえば嘘になる。
でも……。
「……あなたは、とても良い方なのだと思います。バウマン男爵令嬢」
わたしの答えに、バウマン男爵令嬢の片方の眉尻がぴくりと上がった。
「何ですって?」
「おっしゃること、よくわかります。わたしはシルヴィ……リーンフェルト侯爵に甘えすぎていました。彼の迷惑も考えずに」
「認めるの!?」
問い詰める声が、いっそう尖る。
「はい。ただ……ひとつだけ、訂正させてください。リーンフェルト侯爵は、誰かに利用されたりはしないと思います。優しいだけでなく、とても賢い方ですから」
バウマン男爵令嬢の瞳が、初めて揺らいだ。
そして、呟く。
「ええ、知っているわ」
「知っている……よかったです」
シルヴィオさんは有名人だ。バウマン男爵令嬢とだって会ったことがあるだろう。
だからこそ、ここで誤解を解かなくちゃ。
「よかった?」
「はい。リーンフェルト侯爵をご存知なら、わかっていただけるはずです。診療所で働きたいというわたしの意思を、彼は尊重してくれました。シュターデン先生の志もご理解の上でのことだと思います。物事の善悪を見分けて、人を信じられるのは彼の強さゆえだと……か、感謝してい、ます」
緊張で最後、噛んでしまう。
男爵令嬢が目を細めた。どんな綻びも見逃すまいとするように。
そして、尋ねる。
「聞かせて、アリッサ。あなたにとって、リーンフェルト侯爵はどんな存在?」
直感した。
この人に嘘は通じない。
本当の名前、生まれ育った場所、聖女の双子の姉であること。
既にたくさんの隠し事を重ねているわたしだけど、自分の気持ちだけは正直に伝えるべきだ。
そうでなければ、シルヴィオさんの名誉を守ることはできない。
「彼を誇りに思っています。誰よりも……世界でいちばん大切な人です」
「誓えるのね。あなたの婚約者を悲しませないと」
「ち、誓います。彼の恥になるようなことはしていませんし、これからもしません」
これは本当だ。
わたしはもうすぐ、彼のもとを去るから。
「……わかったわ」
小さく息を吐いた令嬢の顔には、あいかわらず苦渋の表情がきざまれている。
でも、そこにわずかな安堵の色が宿ったように見えた。
(やっぱり、悪い人じゃない気がする……)
デニス先生が、遠慮がちに会話に割り込んだ。
「……男爵令嬢。今度こそ我々は失礼いたしま」
「最後に確認よ」
被せ気味にバウマン男爵令嬢が遮った。
さすがのデニス先生もビクッと動きを止める。
「さっき、診療報酬の使い途は子供たちの薬や食事代だと言ったわね。あの言葉に嘘はない?」
「は、はい!」
目力に圧されて、わたしと先生は人形みたいに首を縦に振った。
これまでの会話を反芻するように、バウマン男爵令嬢が、ゆっくり瞬きをする。
そして、
「よろしい。もう行って」
そう言った声には、凛とした響きが戻っていた。




