Act:48
見知ったベットの天蓋の底、見知った部屋で目を覚ますというのは、こんなにも安心と安らぎを感じてしまうのだろうか。出来ることなら、いつまでもこの幸せの中で微睡んでいたい。
そんな俺の小さな願は叶わず、今日も朝はやって来る。
旅が終わり、俺は再びお屋敷と行政府を行き来する毎日を過ごしていた。
朝は、パリッとしたワイシャツにスカーフタイを締め、髪はバレッタで纏める。大体いつも、仕事にはパンツ姿で出向いていた。
そうそう、今朝は、昨夜読もうと思って行政府から持ち帰って来た、今年の作物の出来高報告と非常備蓄食料の割合報告書を収めたブリーフケースを小脇に抱えて出発する。
王都から戻った直後は、大審院での議決の内容を伝えるために朝議会に出席する多忙な日々が続いた。
古参の執政官や行政府職員たちの中には、王統府の査察を受けることについて明確に不満の声を上げる者もいた。
実際に瑕疵を指摘されるかどうかではなく、査察を受ける事自体が恥辱なのだ、と。
所詮小娘かと暗に嘲られた事もあった。
そんな言葉に落ち込むこともあった。
紛糾する議会に、しかし俺は顔を背けられなかった。背けてはいけないのだ。
この査察受け入れの議決は、俺が考えて俺の名の下に提案したものなのだから。
侯爵領のみんなに説明し、理解してもらうように努力する義務が、俺にはある。
そんな厳しい状況で俺を助けてくれたのは、お父さまの言葉だった。
「我が娘の名でなされた事は、我が名でなした事も同然である」
その言葉に、議会は幾分静かになった。
お父さまには、大審院の状況を逐次手紙で知らせてあったとは言え、そうして毅然と俺を認めてくれた事は、素直に嬉しかった。
こうなればもう頑張るしかない。
俺は査察に不満を抱える者達を個別に回って直に話をした。そして、査察に協力してくれるように求めて回った。
例え査察を受けても、リムウェア侯爵家には恥じるところなどないと、俺は胸を張る事は出来る。
しかし家中の足並みを揃えておかなければいけない。思わぬところで足を掬われることもあるかもしれないから。
お父さまや、意外にも俺に賛同してくれた主席執政官の助けを得て、反対派を翻意させたとは言えないまでも、議会が何とか落ち着いたといった頃、俺にとって嬉しい事があった。
俺は、お父さまから行政府の一画に部屋を頂いたのだ。
お父さまの執務室と同じフロアに、俺専用の執務室だ。
そこで政務をサポートして欲しいとお父さまに頼まれれば、俺は即、満面の笑みで頷いていた。
俺専用の執務室は、お父さまの執務室に比べればずっと狭いが、俺にとっては狭すぎず広すぎずにちょうど良い。大きな窓からは大聖堂の鐘楼や遠く運河の煌めきを臨む事が出来て、見晴らしも良かった。
そして、日当たりも良好だ。
まだ本棚と執務机、応接セットしかないがらんとした部屋を見て、俺はえへへっと1人で笑ってしまう。
だって嬉しくて。
俺もお父さまと肩を並べて仕事が出来る事が、嬉しい。
お父さまが議会に出ている間も、俺でも事足りるような簡単な決裁事案を処理して行く。
朝議会に参加していた人たちが議場から引き上げて来ると、インベルスト行政府が本格的に動き始める。
書類が山のように運ばれて来る上、お客さんもやって来る。
やはり市井の人たちに取っては、侯爵さまに直々に謁見するというのは敷居が高い事のようだ。
お父さまに直接持って行きにくいようなちょっとした話や、お父さまへの取り次ぎを求める人たちが俺の所にも結構やって来た。
その度に書類仕事は中断されてしまうが、まぁ、しょうがない。
昼食は、天気が良ければお父さまと屋敷まで戻る。雨の日はお父さまの執務室で一緒に食べた。
行政府にも職員食堂というものがあって、俺も一度顔を出したことがあった。
窓際の席でパンにかじり付いていると、周りからの視線を痛い程感じた。それに、昼時は大混雑で相席当たり前なのに、俺のテーブルには誰も来なかった。俺の席の近くを行き来する人は結構多かったのに、遠巻きに窺うだけで俺が顔を上げると逃げてしまう…。
やはり食事という安らぎの時間に、上役の顔など見たくないということだろう。
それ以来俺は、お父さまと昼食を取っていた。
食事を終えると、再び書類と来客だ。
たまに会議に参加したり、市内の公共事業を視察したりもする。
夕方、書類が少ない日はお茶を飲んでまったりする事もあるが、昨日のようにブリーフケースに書類を詰め込んで夜の宿題にする事も多かった。
そんな日々を過ごして数日目の夕方、俺は膝掛けとカーディガンで寒気に対抗しながらその日最後の書類に挑んでいた。
しかし旅の疲れがまだ残っているのか、自然に瞼が重くなる。ペンを持ったまま、俺はうつらうつらしてしまう。
ガクッと身震いして顔を上げる。再び書類に目を落とすが、気が付けば同じ箇所を何度も何度も読んでいた。
そしてとうとう意識を失ってしまい…。
「はわっ…!」
机に突っ伏していた俺が勢い良く顔を上げると、外はもう真っ暗になっていた。
いつの間にか室内は、オレンジ色のランプに照らし出されていた。
恥ずかしい…。
ランプを付けに来た誰かに居眠りを見られた…。
その時起こしてくれればいいのに…
「お前があまりにも安らかな寝息を立てていたのでな。わしが寝かしてやるよう命じた」
俺はその低い声にはっとする。
ティーカップを持ったお父さまが、窓際の壁にもたれて立っていた。
気が付かなかった…。
俺は慌てて居住まいを整える。
「はははっ、良い」
お父さまはそんな俺を笑って制した。
「何かご用でしょうか、お父さま」
慌ててそう取り繕う俺を、お父さまは微笑ましそうに目を細めて見ると、また笑った。
「なに、一緒に帰ろうかと思ってな」
時刻はとっくに終業時間を過ぎている。
お父さまは俺が目覚めるのを待ってくれていたのだ。
俺は申し訳なくて急いで準備を整えると、お父さまと話をしながら外に出た。
最近朝夕はめっきり寒くなった。俺は思わずカーディガンの前を合わせる。
どんよりとした冬の曇り空が多くなったインベルストでは珍しく、今夜は星が見える夜だった。
寒いということは、空気が澄み渡っているという証。
綺麗な夜空だ。
俺は白い息を吐いて天を見上げる。
星が降る夜。
こんな日は、あの白い花が咲く温室を思い出してしまう。
王都から戻ってから今まで、俺はシリスの、つまり「あの事」をまだお父さまに相談出来ずにいた。
俺は前を歩くお父さまの背中を見つめる。
年齢の割に無駄のない体は背筋が伸び、足はスラリと長くてスタイルがいい。しかし歩幅が広い分歩くスピードが早い。
ぼんやりしていた俺はあっという間に間隔を開けられてしまった。
小走りにお父さまに追い付きながら、俺はその背中に思い切って声をかけた。
「…あの、お父さま…」
しかしその声は消え入るように小さく、きっと前を行く偉大な背には届かない。
その上、その後になんと続けていいのか分からない。
そもそも俺はあの事を、なんとお父さまに相談すればいいのだ?
冗談の一つとして話すのか?
断りたいと泣きつくのか?
それとも…お受けしたいと切り出すのか?
分からない。
今冷静に考えれば、あの場で断ってしまうのが当然だっただろう。
しかしそう思う度に、シリスの真剣な顔が脳裏をよぎる。
…分からない。
でも、このまま放置していい問題ではない。
「…お父さま」
私は思わず、お父さまのコートをぎゅっと握っていた。
「ん、どうした、カナデ」
お父さまが振り返る。
私はううっと唇を噛み締めて、その先の言葉が見つけられずにもじもじするだけだった。
沈黙。
「そういえば、お父さまって獅子候って二つ名なんですよね」
俺は笑顔でお父さまを見上げた。
そして並んで歩き出す。
ああ…。
「何だ、突然?」
「王都でもお聞きしたんですよ、そのお父さまの二つ名」
「まぁ、わしも若い頃は今の国王陛下、あの時はまだ皇太子殿下だったが、その陣に参じた事もあるのだ」
…情けない。
…自分の不甲斐なさに腹が立つ。
「格好いいですよね、獅子候って」
お父さまが俺を横目で見てニヤリと笑った。
「なに、お前にもあるではないか。市中ではなかなかに広まっておると聞いたが?」
俺の二つ名?
首を傾げて俺はお父さまを見上げた。
「なに、曰わく雪色の剣姫、とな」
「あわっ…」
俺は口を開けて固まってしまった。
そうだ。
ずーっと前にそんな事を言われたような…。
「格好いいではないか」
お父さまが面白そうに微笑む。
ハ、ハズカシイ…。
俺はぶんぶんと頭を振った。
いつの間にか俺たちは屋敷に到着していた。
笑うお父さまを、恥ずかしさで真っ赤になる俺を、アレクスが扉を開いて迎え入れてくれた。
屋敷の中は、ぼわっと暖かかった。
翌日は、厚い雲がどんよりと立ち込める1日だった。
今にも雪でも落ちて来そうな程の冷え込みだ。
俺の執務室から見渡せるインベルストの街は、灰色に沈んでいる。まだ午後の早い時間なのに、世界が暗い。お陰で行政府を含めてどの建物も既に明かりを灯していた。
まるで黄昏時が長く長く続いているようだ。
行政府の中はセントラルヒーティングのおかげで暖かかった。
俺は書類から顔を上げて、肘を付いてその白く曇った窓をぼんやり見ていた。
この天候のせいか、一般の来客は少なかった。お陰で書類仕事は順調だ。
しかし今日は、間もなく最も重大な来客がある。
とうとう、王都からリムウェア侯爵領査察隊が到着するのだ。
俺はじっとしていられなくて窓際に寄る。
白く曇った窓ガラスにそっと指を這わせる。
冷たい…。
俺はそのまま指を動かす。
三角、三角、丸。丸2つにもう一つ丸から2本足を伸ばしたら…。
出来た、にゃんこだ
にゃんこ、にゃんこ…。
小学校の頃、よく曇った教室の窓に優人と2人で落書きしたっけ。
これ、曇りが取れたあとも窓ガラスに跡が残るんだよな。
それで優人が先生の悪口書いて、怒られてたんだ。
ふふっ、馬鹿な奴。
俺は無意識に指先でにゃんこを増産して行く。
リムウェア侯爵領査察隊が来たということは、ラブレ領にも査察隊が出たと言うことだ。そこには、優人たちが護衛として同道しているはず…。
何も起こらないといいが…。
優人、無茶すんなよな…。
そこにノックが響く。
「どうぞ…」
若い末席の執政官が入って来た。
「カナデさま。王都から査察隊が今インベルストに入ったと知らせが。間もなくここに参ります」
鼓動が高鳴る。
「わかりました。私もお出迎えに行きます」
俺はそう言うと用意してあったコートを勢い良く羽織った。
「カナデさま」
しかし厳しい面持ちの俺とは対照的に、執政官は微笑ましそうに目を細めた。
「カナデさまは絵がお上手ですね。可愛らしい熊だ」
ああああああああああ…!
窓には大量のにゃんこの絵が!しまった、消してない!
俺は窓に走り寄って慌てて曇りを拭き取った。
なんたる失態!
…しかし、熊じゃなくて猫なのに…。
「待たせました。行きましょう」
俺は恥ずかしさで俯きたくなる顔を、全力で何事もなかったかのように澄まして部屋を出た。
行政府の正門前には、既に出迎えのお父さまや執政官たち。警備の騎士たちが集まっていた。
俺はそっとお父さまの斜め後ろに立つ。
やっぱり外は冷える。俺は合わせた手に息を吹き掛けてこすり合わせた。
やがて、王直騎士たちに護衛された馬車が2台、行政府の敷地に進入して来た。
王直騎士は、誰もが全身鎧で兜まで被っている。
シリスは…。
い、いるはずないではないか…。
シリスはいなかったが、しかし隊列前方の女性騎士が俺にぶんぶんと手を降っていた。鎧がカチャカチャと鳴る。
兜から赤髪が覗く。
もしかして…レティシア?
馬車は車寄せに入り、お父さまの前で止まった。
一台目からはフロックコート姿の目つきの鋭い男たちが降り立つ。いかにも中央の官僚といった感じで、威圧感を覚える。
そして2台目からは、メイドさんたちが降り立つ。そのメイドさんが素早く反対側に回り込むと、馬車の扉を開いた。
「まあ、インベルストと言うのは、存外寂しいところですわね」
レースが零れる。
馬車から溢れ出す大輪の花びらは真紅のドレスだ。
それに見合うだけの華やかな顔だち。艶やかなストロベリーブロンドはこんな曇りの日でもそれ自体が光を放っているように輝いていた。
…お嬢さまだ。
…おお!
飛び切りのお嬢さまが来た!俺みたいななんちゃってじゃない、本物だ!
しかし彼女、どこかで見たことがある。
ピアノ…。
そういえば、南公と会う事ができたあの国王陛下主催の夜会で、ピアノを弾いていた…。
「ここがユウトさまの街なのね!」
そのお嬢さまがうっとりしたように微笑んだ。
ユウト…さま?
もう季節は冬となりました。
そしてにゃんこ再登場です。
読んでいただいてありがとうございました。




