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雪色エトランゼ  作者:
第1部
46/115

Act:46

 草原の彼方に金色の日が沈む。

 テレビでしか見たことのなかった地平線が、この今日という日の最後の残光を受けて、キラキラと輝いていた。見上げれば、紫紺の空に、薄雲の向こう、気の早い幾つかの星が瞬き始めている。

 夜の匂いがする風は冷たい。しかしその冷たさが、火照った体にちょうど気持ち良かった。

 はっはっはっはっ…。

 俺は肩で息をする。

 頬を冷たい汗がつぅっと流れ落ちていく。

 羽飾りが揺れる部隊長仕様の兜を被った全身鎧のシュバルツが、馬に跨り、長大な馬上槍を片手で携えながら俺を見据えていた。

 対する俺は、騎士服の上にブレスプレートを装備しただけだ。同じく馬に跨り、片手で手綱を、片手で長槍を脇に抱えていた。

 ぶるんっと鳴く馬の首筋にそっと触れる。

 悪いが、もう少し付き合ってくれ。

「どうした、お嬢さま。もう終わりか?」

 シュバルツが笑みを含んだ声で言い放つ。

 くそっ…。

 あいつ、あんな重装備で息も乱れていない。体力バカめ…。

 俺は心の中で罵る。そして、せめて一矢報いてやろうと、馬の腹を蹴ってシュバルツ目掛けて駆けだした。

 身を低くし、槍を構える。

 馬はぐんぐん加速する。不敵に笑うシュバルツに急接近する。

 そして間合いに踏み込んだ瞬間、俺は手綱を離して長槍を両手に持ち、馬力を生かして突き込んだ。

 シュバルツが俺の穂先を払い除けようと自身の槍を持ち上げる。

 しかしこれはフェイントだ!

 勢いをそのままにシュバルツの眼前から穂先を戻した俺は、そのまま頭上で槍を回転させ、反対の脇に構え直す。そして体を捻ってシュバルツの側面にすくい上げるような一撃を放った。

 かんっと軽い金属音が響いく。

 勢い良く俺とシュバルツの馬が交錯する。

 直ぐに手綱を引いて馬を止め、振り返ると、ガントレットを掲げたシュバルツがニヤニヤ笑っていた。

「今のフェイントはなかなか良かったぜ。だがな、馬の勢いが生かせてねぇ。お嬢さまの腕力程度じゃ、この鎧に傷もつかねぇ」

 あの俺の一撃を、シュバルツはガントレットで弾いたのだ。

「あのな、お嬢さん。騎馬戦ってのは、馬を器用に操れるかどうかだけじゃねぇ。馬の強烈な突進力を、どう攻撃に乗せていけるかだ。わかるか?」

 俺は無言で頷く。

 汗で髪が頬に張り付いていた。

 はっはっはっ…。

 槍を構えた腕がぱんぱんだった。

「じゃあ日も落ちたしな。今日はここまでだな」

「…ありがとうございました、シュバルツ」

 戻るぜ、とシュバルツがシルエットになりつつある草原の真ん中の城塞都市を指差した。

 あの街が今夜の俺たちの逗留先だった。

 俺はシュバルツと馬主を並べて街に戻る。

「しかし、訓練をつけてくれ、なんざ、貴族のお嬢さまのいう事じゃねぇよな」

 がはははっとシュバルツが愉快そうに豪快に笑う。

 俺はそれを後目に乱れた息と上気した頬を落ち着けるために、深呼吸を繰り返していた。

 これから何があるかわからない。

 誰かの足手まといにはなりたくない。

 優人はどんどん強くなるし、シリスも…。

 俺は、侯爵領への旅の間もリリアンナさんとシュバルツに色々なレッスンをお願いしていた。シュバルツには剣以外にも弓や槍、馬術に戦術。リリアンナさんには、地理やそれぞれの貴族領の特色、産業なんかを。

 王都を出て4日目。

 往路と違ってリコットの船は使えず、俺たちは陸路で侯爵領を目指していた。

 この草原の真ん中の城塞都市でその行程の半分を超えた事になる。



 草原の中の城塞都市は、様々な人種や職業の人々が集まる雑多で混沌とした街だった。この大草原を行き交う人、物が全て通り過ぎていく大陸の旅の要衝だった。

 建物がみっしりと詰まった城塞の中には、人々の濃い生活の息吹きが満ちている。

 交通の要衝であるが故に特定の貴族の領地になることはなく、有力市民長達やギルド長による合議で街が運営されているようだった。

 俺もこの街に到着した時、市民長会議に挨拶に赴いた。

 事前に暗記した挨拶の口上を必死で述べる俺に優しげに微笑んでくれた市民長の老人たちは、挨拶に行ったのは俺の方なのに、逆に色々とお菓子なんかをくれた。インベルストでもそうだったが、市民長の老人は、他人にお菓子をくれる人達ばかりなんだろうか。

 今日一晩この街に泊まり、明日はまた草原の中の旅が続く。

 俺達侯爵家一行が宿をとったのは、この街でも最高級の宿屋だった。

 貴族の家柄ともなると、予算云々よりも体面というものが幅を利かすらしい。旅費は節約した方が…と申し出た俺は、リムウェア侯爵家に相応しい振る舞いではありません、とリリアンナさんに一蹴されてしまった。

 しかし、高い料金を払うだけあって、今日の宿を含めて、今まで泊まって来た宿は確かに快適だったのは事実だ。

 ベッドはふかふかだったし、食事は申し分ない。

 しかし、いかんともしがたい大問題があった。

 部屋にお風呂がないのだ。

 大浴場しかない。

 旅慣れた夏奈あたりに言わせれば、お風呂があるだけ上等だよう、と言うだろ。

 しかし俺は、どうすればいいんだ?

 インベルストや王都の屋敷には、個別浴室があったから問題なかった。船を使えた往路は、旅程が短かったからなんとかなった。

 しかし今は違う。

 大浴場で入浴中に誰かが来たら?

 俺は常にその恐怖と戦っているのだ。

 対処法は、とにかく人のいなさそうな時間を狙う、とにかく迅速に済ませる、だ。

 浴場の前で入浴セットを持った俺は、うろうろと中の様子を窺う。今日の宿は男湯と女湯が別れているタイプだ。場所によっては、時間で使用する側が変わる所もあった。

 どちらに入るか…。

 それも悩みどころだ…。

 もし見つかった場合、男湯では多分周りがパニックになる。女湯だと俺の心の中が間違いなくパニックになる。

 俺はえいやっと女湯に飛び込んだ。

 幸い誰もいなかった。

 訓練で汗を吸った服を素早く脱ぐ。

 体を洗う。

 髪を洗う。

 じゃぶんと湯船に入る。

 熱いお風呂に肩まで浸かって、百数えなさい。それが1日の疲れを残さない秘訣だ。

 子供の頃、一緒にお風呂に入った時にそう言っていた祖父の言葉を思い出す。

 俺は湯船の中で体育座りする。

 ふうっ…。

 一つ、二つ、三つ、四つ…。

 カタンと何か音がする。

 俺はびくっと身を震わせる。

 まさか誰か来たのでは…。

 九つ、十、十一……以下略。

 俺は慌ただしく風呂を出ると、体を拭きながら恐る恐る脱衣場に戻った。

 良かった、誰もいない…。

 そう安堵した瞬間、表から声が聞こえた。

「でも、こう1日中馬車に乗りっぱなしだと、お尻が痛くなるわ」

「本当ですわ。ずっと馬に乗ってらっしゃるカナデさまを尊敬致します」

「そうよね。カナデさまもあたしたちの馬車に来られればいいのに」

 マズい!

 この声はメイドさんたちだ!

 俺はもうパニック寸前だ。

 とにかく頭を拭いて服を着る。

 くっ、ブラウスに手が引っかかる…!

 うぐっ、ボタンが上手くかからない…!

 落ち着け、俺!

「あら、カナデさま。もう上がられたんですか?」

「私たちとご一緒致しませんか?」

 とうとうメイドさん2人が脱衣場に入って来た。

 …よし、何とか間に合った!

「お先さまです。お二人はごゆっくり」

 俺は会心の微笑みを浮かべ、浴場を後にした。

「あ、カナデさま。髪がまだ…」

 メイドさんの言葉も聞こえず、全速でその場を離れる。

「あわっ」

 しかし急ぎすぎて、曲がり角で人にぶつかってしまった。

「す、すみません」

 鉄板のように堅い衝撃に顔を上げると、目の前にシュバルツがいた。

 この筋肉お化けの胸板に突っ込んだようだ。そりゃ堅いはずだ。

「何だ、お嬢さまか。ちゃんと前見…」

 そこでシュバルツが固まる。

 顔をしかめて視線を逸らすと、恥ずかしそうに頬を掻いた。

「お嬢さま。もうちょっとだな…」

 珍しくシュバルツが言葉を濁し、そっと俺の胸元を指差した。

 おずおずと下を見ると、ちゃんと体を拭けていなかったせいで濡れたブラウスが肌に張り付き、さらにきちんと上までボタンが留められていなかった。

「うわっ…」

 何だか私は急に恥ずかしくなって、後ろを向くといそいそとボタンを留める。

 くそ…不覚。

 なんとも詰めが甘い…。

 出会ったのがシュバルツで良かった。

 しかし、まるで俺の心を読んだように、シュバルツがふんっと不満そうに鼻を鳴らした。

 俺はその顔を覗き込むように見上げて、「すみません、ありがと」と囁くと、慌てて自分の部屋に走り戻った。

 剣や槍だけじゃない。

 議会や政治的問題だけじゃない。

 俺の毎日は、どこでも日々戦いなのだ。

 負けない…!



 大草原を揺らして吹き抜ける風が、俺の髪をさらう。

 朝日を受けて進む隊列の横を並進しながら、俺は馬の背の高い場所から世界を見つめる。

 空気の冷たく澄んだ朝は、ドレスコートだけでは寒いので、その上にリムウェア侯爵家の家紋が刻まれた深紅のマントを羽織る。

 馬車の中から手を振るメイドさんたちに笑顔を返すと、軽く馬の腹を蹴ってスピードを速める。

 俺の息も馬のそれも微かに白い。

 俺と同じマントをはためかせて隊列を組み進む騎士たちを追い越して、先頭のシュバルツも追い越していく。

「お嬢さま。あんま前にでんなよ」

 注意するシュバルツに、俺は微笑を浮かべて頷いた。

 世界は広い。どこまでも。

 見渡す限り広がる世界の中を、俺達の隊列が進む。

 終わりがないかとも思えた大草原は、しかし呆気なく森に飲み込まれて果ててしまう。

 柔らかい日差しが木漏れ日となって街道に斑模様を描く森は、小鳥や他の沢山の動物達の息吹きで溢れていた。季節はもうじき冬なのに、動物たちの気配が濃厚なのは、森が豊かだからだろうか。それとも、冬籠り前の最後の賑わいの中を、俺たちは進んでいるのだろうか。

 深い渓谷になっている場所では、岩場に住む巨大な鹿のような生き物を見た。

 草原の空には、巨大な怪鳥を見た。

 森の中で可愛らしい小動物を見つけ、そして時々すれ違う旅人と挨拶を交わす。

 一度だけ狼型の魔獣に襲われた事もあった。しかし俺が号令する前に、シュバルツがさくっと殲滅してしまったが…。

 谷を抜け丘を登り、川を渡って俺達は進む。

 日差しの強い日は少し暑くて、ブラウスを腕まくりしていたら、リリアンナさんにはしたないと怒られた。雨の強い日には、シュバルツたちと同じように合羽を着て騎乗していたら、無理やり女性陣の馬車に押し込められた事もあった。

 清流のほとりでみんなでお弁当を囲んだ事もあったし、手綱を握りながらサンドイッチを食べていたら、衝撃で落としてしまい、涙が零れた事もあった。

 …その時は騎士団のみんなが食べきれないぐらいのサンドイッチを分けてくれたが…。

 旅は進む。

 さすがに野営はしなかったが、こうしていると、冒険者として世界を旅する優人や夏奈が少し羨ましく思えてしまう。

 王都からリムウェア侯爵領への陸路は、本来ならラブレ男爵領を横断するのが最短ルートだった。しかしあえて東側に大きく迂回した俺達一行は、往路より随分と時間をかけて侯爵領を目指していた。

 そして、今通過しているこの峠を抜ければ侯爵領の北端に入る。



 岩肌がむき出しになった細い峠道を隊列は一列縦隊で進む。

 俺の目の前には、シュバルツのごつい背中があった。

 左手の切り立った崖、その下に広がる靄が掛かった深く黒い森。

 少し湿った水気と草木の匂いが鼻につく。もしかしたら、また雨が降るかもしれないと思った。

「お嬢さま。この下はもう侯爵領だぜ。帰ってきたな」

 シュバルツが振り返りながら、くいっと顎で崖下の森を指した。

 俺は何の変哲もないそのただの森を見つめる。

 何か熱い者が込み上げて来るような気がした。

 そうか…。

 とうとう帰って来たんだ。

 俺達の家がある故郷に。

 峠道は段々と道幅を広げて下っていく。標高が下がるにつれて、徐々に靄も晴れてきた。

 すると、森に寄り添うような建物の影が見えて来た。

 檜皮葺の木製の簡素な家々が立ち並ぶ。背が高いのは、粗末な物見櫓だ。それらを取り囲む自衛のための木塀は、ところどころが朽ちて倒れていた。

 寂れた寒村。

 そんな形容がぴったりの村が、街道の脇に現れた。

 村の周囲の畑も荒れて朽ちていた。もうすでに周りの森に飲み込まれて同一化しようとしている。

 まだ日が高い昼間なのに、人影は皆無だった。

 俺は胸がざわつく。

「行こうぜ、お嬢さま」

 シュバルツが声を抑えて言った。

 しかし俺はこの目の前に広がる絶望的な光景から目が離せなかった。

 あの家にもあの家にもあの家にも。あの畑にもあの井戸にもあの櫓にも。

 貧しそうでも人々の暮らしがあった筈だ。

 それが何故こうなってしまったのだろう?

「…シュバルツ?」

 俺は答えを求めるようにシュバルツを見た。

 シュバルツは苦虫を噛み潰したような顔で、しかし進み始めた馬の足を再び止めてくれる。

「ここいらはな。魔獣の侯爵領北部進行で真っ先に標的になった辺りだ。騎士団はラブレ男爵側を警戒して動けずにいて、そん時にそのまま見捨てられた村だろうさ」

 俺は胸の真ん中を貫かれたような衝撃を受ける。

 シュバルツの言葉に、咄嗟に何もコメントが出来なかった。

 俺たちが行政府の卓上で、「被害の一つ」という言葉で片付けた惨状が、今、目の前に広がっていた。

 知らない土地を旅するのはいいですね。

 インベルストだけじゃなくて、いろいろな土地を出して行けたらと思います。


 読んでいただき、ありがとうございました。

 ご指摘、ご感想がありましたら、是非よろしくお願い致します。

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