世界のことわり
「お疲れ様、レオン。どうだった? って、聞くのは野暮かしら?」
「いいよ別に。……姉ちゃんこそあれでよかったのか? あんな……救いを与えるようなこと言って」
「あれが大正解だったのよ」
不服そうなレオンの頭を撫でる。
「お母様はプライドが高い方だから、私にお願いしなければレオンに会えないってだけでも、実は相当堪えているはずよ」
「でも甘いだろ。あんなこと言うなんて……最低だ」
アビゲイルの代わりにここまで怒ってくれる人がいる。
それだけでどれほど救われていることか。
アビゲイルがちらりと見れば、そばで見守っていたグレイアムと目が合う。
アビゲイルが化け物と呼ばれた瞬間、グレイアムの瞳に鋭い光が走った。
あの時レオンが来なければ、彼もまたカミラに対してなにかしていたのだろう。
「ありがとう。私のためにそこまで言ってくれるなんて……。本当に私は、幸せものね」
人に恵まれていると思う。
幼少期に得ることができなかった愛を、今たくさんもらえている気がする。
「まあ、姉ちゃんがそれでいいならいいけど……」
「さ、仕事はごまんとありますよ。さかさか動く!」
「はいっ!」
エイベルの声に背筋を伸ばしたレオンは、慌てて部屋を出て行った。
彼には彼のやるべきことがある。
それを楽しんでやっているのがわかるからこそ、その後ろ姿に笑みが溢れた。
「レオンがいてくれてよかった」
「そうだな。レオンのおかげで公爵家も明るくなったし……」
グレイアムは足を組むと、薄く唇に円を描く。
「王太后へのいい牽制になるな」
「…………そうね」
グレイアムの言葉に、アビゲイルもまた口端を上げた。
カミラは気づいているかわからないが、彼女にとってレオンという存在は自身の命よりも大切な存在なのだろう。
そんな存在がアビゲイルの元にいるということの重大さを、カミラは果たして理解しているのか……?
「レオンが生きるも死ぬも、アビゲイル次第だ」
「もちろんレオンを殺したりなんてしないわ。……でもお母様がレオンに会う時、必ず私を頼らなくてはならなくなる」
「アビゲイルの機嫌を損ねれば、レオンはここから追い出されて……。次こそ二度と会えなくなるだろうな。レオンの態度を見るに、どれだけ切羽詰まろうとも王太后を頼ろうとはしないだろうし」
「お母様は私の機嫌を伺わなくてはならなくなる。……昔と逆でね」
それがどれだけカミラにとって苦痛なことか、想像もできない。
アビゲイルという存在をとことん憎み、見ないようにしていたカミラが、今度はアビゲイルに頼り続けなくてはならないのだ。
「お母様への復讐は、始まったばかりね」
あのプライドの高いカミラが、アビゲイルを頼りにするなんて。
「でも大丈夫。レオンには必ず会わせてあげるから」
飴と鞭はうまく使わなくては。
屈辱だろうアビゲイルに頭を下げて、レオンと出会えた時の彼女の喜びは最高潮に達するだろう。
そしてそのうち抗えなくなるのだ。
その喜びをもっと、もっと味わいたくてたまらなくなる。
そうなった時、彼女は堕ちるのだ。
「お兄様と一緒。あとは勝手に落ちていくだけよ」
「……なら、次のターゲットに移るか?」
次のターゲットと言われて、アビゲイルの頭には流れる星のように美しい金色の髪が思い浮かぶ。
一瞬心の中がざわついたけれど、それを無視して口を開いた。
「――そうね。次のターゲットは……アリシアよ」
「……どうするつもりだ?」
グレイアムからの問いに、アビゲイルは瞬時に答えることができなかった。
アリシアをどうしたいのか。
今のアビゲイルにはわからないからだ。
「……わからない。だから、アリシアと接点を持とうと思うの」
「接点?」
「そうよ。……確か、アリシアは学院に通ってるのよね?」
「ああ。彼女は薬草学の専門家になるため、大学院に行っているはずだ。本来ならグレイアムもそこに通っていた」
彼がそう言うということは、つまりは本来の世界線なら、という話だろう。
「アリシアはそこで攻略対象と出会い、やがて旅に出る。――死の神を封印するために」
「……なら、そこに通うわ」
グレイアムの目が大きく見開かれる。
意外な提案だったのだろう。
まあ彼の反応はもっともだなと頷いた。
「アリシアのことを知らないと、復讐もなにもできないもの。……本当に彼女を堕とすかどうかを、決めなくちゃ」
「……わかった。なら俺も、ともに行く」
まあそう言うだろうなと思っていたので、アビゲイルは小さく頷いた。
グレイアムとともに行けるのなら、これほど心強いことはない。
「でもいいの? 公爵家は……」
「エイベルがいるからな。あれは俺の代わりができるほど優秀だ」
「そう。……なら、よろしくね」
「もちろん。なにがあっても君を守る」
「ありがとう」
どうやら次の行動が決まったようだ。
そうと決まれば即行動だと、アビゲイルとグレイアムは立ち上がる。
「そういえばあんなこと言ってなんだけれど、学院になんてそんな簡単に入れるの?」
「心配ない。国王の推薦に、拒否できる学校なんてないさ」
「確かに」
くすくすと笑ったアビゲイルの隣を、グレイアムが歩く。
いつも通り、歩幅を合わせて。
その気遣いが嬉しくて、アビゲイルはグレイアムを振り返った。
「学院にフェンツェルとのこと。ピストルの件もヒューバートに聞かないと。それと……」
「死の神、だな」
謎だらけだけれど、不思議と不安はなかった。
隣にはいつでも、グレイアムがいるから。
「その前にごはんを食べたいわ」
「君の好きなものを用意させよう」
外は嵐だ。
ごうごう、ごうごうと音が鳴る。
時折どこかで雷が落ち、凄まじい怒号を鳴り響かせる。
――たったそれだけ。
たったそれだけだけれど、女はぽろぽろと泣くのだ。
澄み渡る青空のような瞳を揺らし、そばにいる男の胸に抱きつく。
すると男はこういうのだ。
「大丈夫。僕がそばにいる。君は一人じゃない」
「ありがとう。ジョージ」
これでいい。
この選択で間違っていないのだ。
――だが、いつからだろうか?
物語が変わり始めたのは。
ここにいるはずのグレイアムがいない。
彼の愛がここにはない。
悪役がいない。
憎悪にまみれた醜い女がいない。
「そんなの、私のストーリーじゃないわ」
「――アリシア? なにか言ったか?」
「……雷が怖いの。どうかもっと、抱きしめて」
「ああ、もちろん。愛しのアリシア」
雷が落ちる。
深く暗い闇の中を、一瞬の稲妻が部屋の中を照らす。
美しい少女を抱く男の姿が、影となって映し出される。
――そう。
これが正しい姿なのだ。
ヒロインが弱っている時、助けるのはヒーローの役目。
それが正しい世界のことわりなのだから、それを壊すなんてそんなこと。
「――あったらダメよね?」
――そうでしょう? お姉様。あなたが悪役でないと、世界がおかしくなってしまうもの……。
二章 完




