知らない私
その景色を、アビゲイルは他人事のように見つめていた。
まるで絵物語が動き、声を発しているかのようだ。
そんな不思議な光景を、アビゲイルは真っ暗な世界から眺める。
映っているのは自分以外の人だ。
壊れたピストルを懐にしまうシリル。
倒れたままのリリと、アビゲイルの腕の中にいるレオン。
視界が暗闇に染まった時のまま、次の瞬間アビゲイルだけが別のところにいた。
不思議な光景だ。
自分もそこにいるのに、アビゲイルの意識はないのだから……。
ぱちり。
その時間、一秒にも満たなかったはずだ。
アビゲイルが瞬きをし目を開けたその瞬間、彼女の中は別の人間へと入れ替わっていた。
その存在はちらりと己の体を確認すると、ふむと納得する。
「流石になじみはいいが、残念ながら数分持たないか……」
「レディ? 一体どうしたと? その侍女を放置していいのかな?」
「……」
アビゲイルは鬱陶しいと顔にかかるレースを外すと、床へと投げ捨てた。
今はもう意識のないレオンを地面へと寝させると、ゆったりとした動きで立ち上がる。
冷や汗をかいたのだろう。
頰や首筋にまとわりつく長い髪をかきあげると、シリルに向かって人差し指を向けた。
その瞬間だ。
――どぷんっ
「――!?」
まるで池に大きな石を投げ捨てた時のような音が響く。
その瞬間、シリルは突然下半身をうしなったかのようにストンっと視界が大きく下がった。
一体なにが起きているのか。
シリルが慌てて下を向けば、そこはまるで奈落だった。
ぽっかりと空いた穴。
天に輝く太陽の光すら届かない黒は、彼の体をゆっくりと飲み込んでいく。
「――な、なにが起こって……!?」
「その先は無だ。肉体も魂も、カケラも残らん」
「…………レディ?」
シリルは穴の端に手をかけて、必死に上がろうとする。
しかし下半身があるはずのそこに力をこめることができず、むしろもっと飲み込もうとしてきた。
腕の力だけでは登ることもできず、シリルは途端に顔を青ざめさせる。
「――ふむ。全身を飲み込むことは不可能か。流石にまだ他の体はなれんな」
「……どういう」
アビゲイルは片方の口端だけをあげる。
その表情を見て、シリルは眉間に皺を寄せた。
出会った日数は少ないけれど、アビゲイルがそんな表情をするとは思えなかったからだ。
「――足の一本くらいもらっていくか? ……ん? いい? なんだつまらん。このまま穴を閉じれば、下半身のない人間が出来上がるというのに」
「…………」
シリルの顔がサッと青ざめた。
明らかに怯えている様子のシリルに、アビゲイルはハッと鼻を鳴らす。
「どうした小僧。生きていることを感じたいのだろう? 今ほど感じられるものもないだろう。ほうら、がんばらねば落ちていくぞ」
アビゲイルが楽しそうに笑えば、まるで彼女の声に反応するかのように、真っ赤な瞳がギラギラと輝き出す。
宝石よりも美しいその瞳は、いつもとは違う艶かしさもあった。
人を魅了するもの。
明らかにアビゲイルのものとは違うその雰囲気に、シリルは声をこわばらせる。
「……あなたは、誰だ?」
「おいおい。そんな質問今必要か? 我の気分次第で、お前はたちまち死の世界へ向かうというのに」
「――死の、世界?」
シリルの瞳が大きく開かれた時だ。
アビゲイルがぴたりと動きを止めた。
「……もうか。意外と自我が強いのだな……。それでこそ、か。あとは好きにするといい」
アビゲイルはその赤い瞳をシリルに向けると、呆れたようにしつつもゆっくりと瞼を閉じた。
ぱちりと、いつも通りの瞬きを繰り返したつもりだった。
それなのに違うのは、明らかに体が疲れていることだ。
先ほどまでとは違う、体から力が抜け落ちるような感覚に、アビゲイルは争うこともできず地面へと倒れ込む。
顔を打たないよう両手のひらを擦りむきつつも、なんとか上半身だけをあげた。
「……あ、れ? なにが…………」
これほどまでに疲労を感じることはなかなかない。
身体中が軋み、指先にうまく力を入れることができなかった。
そんな中でもなんとか顔を上げてあたりを見れば、同じように倒れ込むシリルがいる。
彼は無傷であったけれど呆然と座り尽くし、アビゲイルと目が合うと震える唇を開いた。
「……レディ、あなたは――」
「アビゲイル――っ!」
その時だ。
シリルの言葉を遮るように、名を呼ぶ声が聞こえたのは。
聞きなれた、低くも優しい大好きな声。
その声が鼓膜を震わせた瞬間、アビゲイルは体に力が戻るのがわかった。
「――グレイアムっ! ここよ! グレイアム!」
腹の底から声を出した。
こんなに大きな声を出したのは生まれて初めてかもしれない。
それくらい力を込めて叫べば、声に合わせてぽろぽろと涙が落ちてきた。
グレイアムの声に、緊張の糸が切れたのだろう。
「グレイアム! グレ――」
「――アビゲイルっ!」
細い通路の端。
まるで太陽の光を背負うように現れたグレイアムの姿を見た時、アビゲイルは安堵のため息をついた。
よかった。
これでリリもレオンも助けられる。
「……よかっ」
ぐらりと揺れる地面。
体は平衡感覚を失い、受け身をとることなく地面へと向かう。
だが体が強い衝撃を受ける前に、慣れ親しんだ香りが体を包み込んだ。
「――」
だからもう大丈夫だ。
彼がいてくれるから……。
アビゲイルは今度こそ意識を失ったその時だ。
また、聞きなれた声が頭の中に響いた。
『まだもう少しかかるな』




