笑い声
そんな約束をした次の日、事態は急変した。
いつものように朝ごはんを食べ、ふと一息ついた時だ。
アビゲイルの元にボロボロの手紙が届いたのは。
「アビゲイル様。またあの男からの手紙です」
「エルから? 見つかったのかしら?」
薄汚れた切れ端を受け取り開けば、そこにはいつも通りミミズが這ったような文字があった。
「――……? なにかしら、これ?」
「どうかなさいましたか?」
アビゲイルの手を覗き込んだリリが、同じように眉間に皺を寄せた。
手紙はなにやら赤黒いインクで書かれていたのだが、どう頑張っても解読できそうにない。
それにこの色……とアビゲイルが文字を指でなぞると、乾燥したインクがパラパラと落ちていく。
「……リリ、これどう思う?」
「…………おそらく、血かと」
「――っ」
アビゲイルはたまらずヒュッと喉を鳴らした。
もしかしてそうなのではと思いつつも、違ってくれと願っていたのだ。
だがリリの言葉に確信を得たアビゲイルは、己の体から血の気が引くのがわかった。
――エルの身に、なにかあったんだ。
青ざめた顔のまま、もう一度手の中の紙を見つめる。
きっとどこかにあった紙に、それこそ血液で文字を書いたのだろう。
パラパラと落ちていくそれは、果たして誰の血なのか……。
「…………なんとか解読できないかしら?」
「見させていただいても?」
「……ええ。お願い」
リリに手渡しつつも、アビゲイルの頭の中は後悔でいっぱいだった。
血で文字を殴りがくくらい、切羽詰まった状態だったのだとしたら、エルの身になにかあったのだと考えるのが妥当だろう。
「――っ!」
やはりレオン探しを頼むんじゃなかったと、アビゲイルは力強く拳を握り締める。
とにかく無事でいてくれ、と願っているとそんなアビゲイルの隣で手紙を解読していたリリが、声をかけてきた。
「アビゲイル様。あの……」
「わかったの!?」
「はい。……ですが」
リリは束の間考えるように眉間に皺を寄せたあと、意を決したように手紙をアビゲイルに見せてきた。
「我々は元々、このような高貴な公爵家の使用人となれる身分ではありませんでした。グレイアム様に拾っていただいた十二の時から読み書きを始めたので、自分の文字がいかに汚いかよくわかっていたんです」
さすがのアビゲイルも必要最低限の教養だけは、幼いころに身につけさせられたため、リリの言いたいことがいまいち理解できなかった。
首を傾げるアビゲイルに、リリは照れくさそうに話を続けた。
「ララとお互い書いた文字を読み合ったんですけど、それがまあ汚くて……読めないけどそれが面白いって、お互い謎解きみたいなことをしてまして……」
「二人が仲良しなのはわかったわ?」
「あ、いえ。そうではなくて……。ですので、この文字の感じ少しわかるんです」
確かにエルから初めて手紙をもらった時、アビゲイルが読めない字をララが解読してくれていた。
なるほどそういうことかと、アビゲイルはリリに向き合う。
「つまり、読めたってこと?」
「確証はないですが……」
「構わないわ。手がかりがないよりずっといいもの」
頷いたアビゲイルを見たリリは、少しだけ戸惑うようなそぶりを見せたあと、ゆっくりと口を開いた。
「――にげろ、ちかよるな。と」
「…………」
「アビゲイル様!?」
リリの言葉が鼓膜を揺らした瞬間、その音に狂わされたように平衡感覚を失った。
上半身がぐらりと揺らぎ、テーブルの上に手をついてなんとか倒れるのを防ぐ。
すぐにリリが体を支えてくれたため、アビゲイルは礼を言いつつすぐに元の体制に戻した。
「…………そう。そう書いてあったのね?」
「事実かはわかりません! 可能性、ですが……」
「…………血の文字であることを想像するに、その可能性は高いわね」
思わず額を抑えた。
嫌な汗が背中を流れて、不愉快で仕方がない。
浅くなる呼吸をなんとか繰り返しつつも、アビゲイルは今一度手紙へと目を向けた。
「――エルっ」
言われて見てみれば確かにそう読める気がした。
やはり彼の身になにかあったのだ。
だというのにエルはアビゲイルを心配し、手紙まで送ってきた。
「…………っ!」
力強く唇を噛み締めながら、死ぬほど嫌いな神とやらを思う。
幼いころから何度恨み言を述べたかわからない。
どうして自分だけこんな目に遭うのだと、見たこともない神に全てを押し付けた。
当たり前だ。
アビゲイルに赤をもたらしたのは、他でもない神なのだから。
「…………神様っ」
だからこれは、都合がいいことだ。
そんなことはわかっている。
わかっていても、願わずにはいられないのだ。
「――お願いっ!」
この世界にいるという死の神よ。
どうかエルを連れて行かないでくれ。
アビゲイルはぎゅっと目を閉じ両手を重ね、力強く握りしめた。
こんな最悪な人生を歩ませてきたのだから、少しくらい願い事を聞けと、やはり最終的には恨み言になってしまう。
それでもなんどもなんども心の中で神に語りかけ、やがてゆっくりと瞳を開いた。
鈍く光る瞳には、薄らと涙の膜が張る。
「――リリ、向かうわよ」
「アビゲイル様!? しかし――」
「ここでエルの身になにかあったら、私は私じゃいられなくなる」
そう言って立ち上がったアビゲイルは、力強く窓の外を見つめる。
確証なんてない。
絶対なんて言えないのになぜか、わかる気がしたのだ。
エルとは繋がりがある。
だから必ず、見つけ出せると。
「向かいましょう。エルの元へ」
そう呟いたアビゲイルの耳に、どこからともなく笑い声が届いた気がしたーー。




