【幕間】グレイアムという男③
「この世界にきたのなら、俺はアビゲイルを幸せにするために生きる」
「アビゲイルとは……嫌われ王女の?」
口にしてから失言だと気づいたエイベルは、やってしまったと心の中で後悔した。
その王女のことは知っている。
この国では禁忌とされる赤い目を持って生まれた王女で、王宮でひっそりと暮らしているという。
そんな彼女のことを国民たちはみな、侮蔑の意味を込めて『嫌われ王女』と呼ぶ。
本当になんの気なしに口にしてしまったのだが、この主人はその女性に好意を抱いているらしい。
ならば今の呼びかたは失礼に当たるだろう。
だから慌てて口を噤んだのだが、当のグレイアムは気にした様子がない。
「この国では常識なのだろうか、俺にとってはそうじゃない。彼女の宝石のような瞳は、ただただ美しいだけだ」
「……」
そういう考えもあるのかと、エイベルは視線を下げた。
この国で赤は死の色だ。
死したものに与える色であり、生あるものには相応しくない。
だからこの国では嫌われているのだが、確かに他国ではそうじゃないこともある。
むしろ赤が神の色とされているところもあり、その国と我が国とでは考え方が違うとたびたび衝突していた。
「エイベル」
「はい、ぼっちゃん」
視線を上げればそこには、いつもより鋭い視線があった。
公爵家の男児は何代にも渡り、この黒曜石のような鋭い瞳を受け継いでいるが、その中でもグレイアムの目は特別だ。
こんなに美しくも背筋が震えそうになる瞳は、早々ないだろう。
「俺はアビゲイルに求婚するつもりだ。……そうだな、時期は控えるがあと数年で現国王が亡くなる」
「――」
「その騒ぎに乗っかって彼女をこの公爵家に迎え入れる」
今、彼はさらりととんでもないことを言わなかっただろうか?
歳をとったせいで耳が悪くなったかと軽く頭を振ったが、エイベルはさらに衝撃の言葉を聞く。
「――そういえば公爵夫妻が亡くなるのもそろそろだったな……」
「…………」
視界がぐらりと揺れた。
エイベルの瞳はぐらぐらとゆらめき、やがてゆっくりとおさまっていく。
無意識にも息をしていなかったと気づいた時、心臓がドッと音を立てた。
思わず口元を抑え、込み上げてくるなにかを飲み込んだ。
「事故が起こる。馬車の事故だ」
「…………それは、決定事項なのですか?」
「ああ」
「――変えることはできないのですか?」
自身が仕える主人が亡くなるというのに、黙って見ているしかないのか。
わかっているのなら、回避することはできないのか。
エイベルのそんな願いを込めた言葉を聞いたグレイアムは、落ち着いた声色で告げた。
「変えない。俺は公爵になって、アビゲイルのよりよい明日を作る」
「…………」
「そのためには権力が必要だからな」
その瞬間、エイベルはきちんと理解した。
彼は本当に、グレイアムではないのだと。
腹違いの妹にも愛を持って接していた家族思いのグレイアムとは思えない言葉に、エイベルはやっと本気にできたのだ。
彼が別人だと。
「だから聞く。エイベル。お前はどうしたい?」
「…………」
グレイアムの瞳が怪しく光る。
これはまた、選択肢を間違えるわけにはいかない問いなのだろう。
よく考えろ、とエイベルは頭をフル回転させた。
これだけ長期の計画を練っている男が、軽々しくエイベルに重要な話をしたということは、答えは二つだ。
――従うか、死か。
さすがに死は大袈裟かもしれないけれど、少なくとも口をきけなくなるような、ナニカをされる可能性はある。
この男がどこまで非情な存在なのか、エイベルにはわからないのだから。
「…………一つだけ、質問よろしいでしょうか?」
「好きにしろ」
どうしても気になることが一つだけあった。
これだけは、きちんと答えを出しておきたいのだ。
そうでなければ、前になんて進めない。
「……本当のグレイアム様は、どうなったのですか?」
目の前にいる男は、考えるようなそぶりを見せた。
「――俺がこの体に入る時、すれ違ったやつがいた。あれが本当のグレイアムなら、入れ替わったか……死んだかだろうな」
エイベルはゆっくりと目を閉じる。
想像していた通りなのに、想像していたことの一番最悪な答えがやってきた。
だが不思議とショックはない。
覚悟を決めていたからだろうか?
「……そうですか。――なら、答えは決まりました」
「…………話せ」
「私は――」
グレイアムという男の子は、普通とは違う運命を持って生まれた。
小国エレンディーレの公爵家に生まれ落ちた彼は、幸せだっただろうかと時折考える。
まあもうそんなこと、エイベルには知る術もないのだが。
実際、男の言うとおりに公爵夫妻が亡くなった。
もしや仕組んだのでは……とも思いはしたが、彼がそんなことを仕組んでいる様子はなかった。
そこから始まった公爵家改革によって、全く新しい公爵家へと生まれ変わった。
それもこれも全て、たった一人の女性のためだ。
この屋敷の使用人たちは、一癖も二癖もある。
だがその中でも――。
「エイベル。これ、教えて欲しいのだけれど……」
「もちろんでございます。アビゲイル様」
一番の変わり者はきっとこの家の女主人、アビゲイルだろう。
この国の誰よりも嫌われ、蔑まれてきた存在とは思えないほど、心優しい人。
「…………」
いや、違うかとエイベルは窓の外を見る。
鳥たちが飛び立つ羽音と共に影を見た気がしたのだ。
エイベルはアビゲイルとグレイアムがなにをしようとしているか知っている。
幸せにする、なんて言ってはいるがその本質は復讐だ。
一歩間違えば、王族への反逆と捉えられてしまうかもしれない。
けれどあの主人は、きっと止まることはないのだろう。
――アビゲイルが望む限り。
「これでどうかしら?」
「完璧でございます」
差し出された紙を確認し頷けば、アビゲイルの顔がパァと晴れる。
嬉しそうに微笑みつつ新たな紙に書き込んでいく様子を見ながら、エイベルは少しだけ悲しそうな顔をした。
あの時の選択を後悔してはいない。
エイベルが父から受け継いだ公爵家の家令という立場。
父は最後の最後まで口にしていた。
『公爵家を絶やしてはならない』
その言葉はエイベルにとって呪いとなり、また生きる意味となった。
今エイベルがここにいるのは、その言葉のため。
たとえ中が全く違うものであろうとも、彼がグレイアム・ブラックローズであることに変わりはない。
ブラックローズ公爵の血が途絶えなければ、エイベルの呪いは死の間際に消化されるはずだ。
だからその時まで、このままでいよう。
全てを知りながらも全てを飲み込む。
公爵家のためならば、己という存在を消せる。
それがエイベルという男の、矜持である。




