【幕間】グレイアムという男①
グレイアム・ブラックローズという男は、普通の人とは違う人生を送る運命だ。
小国エレンディーレに生まれ落ちた彼は、子どもの頃から体は丈夫で体格も良く、風邪ひとつひかない元気な子どもだった。
そして頭もよく、次期公爵としてこれほど素晴らしい人材はないと、両親からも愛されて育つ。
家族仲も良好ではあり、腹違いの妹ダイアナの問題はあれど、概ね良い関係を気付けていた。
そんな彼の運命が変わったのは、十歳の春。
彼の前に女神が現れたのだ。
よく晴れた空のように美しく澄んだ青い瞳。
癖ひとつない金色に輝く長い髪を靡かせるその姿は、まさに美の女神だった。
グレイアムは十歳にして、運命の人と出会った。
それから彼は彼女に気に入られようと努力した。
プレゼントを渡したり一緒に出かけたり。
愛を囁くことだってした。
喜ぶ姿を見て、きっと彼女は自分と結ばれるのだと本気で思った。
――事実。本当なら彼も結ばれる可能性はあった。
なぜなら彼は、攻略対象だから。
だがある日、異変は起こった。
生まれてからこのかた、風邪など引いたことがなかったグレイアムが高熱を出したのだ。
それは運命の女性を庇ってのことだった。
彼女を庇って池に落ちてしまっただけ。
本人ですら、これくらい大丈夫だと笑っていたのに……。
夜にかけてめまいや吐き気を覚え、やがて倒れてしまった。
三日三晩寝込み続け、意識が朦朧としていたグレイアムは夢を見た。
自分が体から抜け、代わりになにかが入っていく夢。
グレイアムという男の記憶は、そこで途絶えた。
結果だけいえば、グレイアムは生死の境をさまよいはしたけれど、なんとか生き残ることができた。
両親はとても安心したようで、グレイアムの生還を泣いて喜んだ。
――だが、当の本人がおかしいのだ。
ぼんやりと外を眺めたかと思えば、鏡に映る自分の顔に怪訝そうな顔をする。
性格も変わった。
真逆、とまでは言わないけれど、どこか大人びた気がするのだ。
病気を乗り越えたから、なんて人々は言うけれど、そうは思えないとエイベルは窓の外を眺めため息をついた。
「――どうした? エイベル」
「……いえ、失礼いたしました」
机に向かって書き物をしているグレイアムが顔を上げる。
今までなら、王女に会いに行っている時間なのに。
彼はあれだけ熱を上げていたのが嘘かのように、王女に見向きもしなくなった。
「…………ぼっちゃん」
「…………なんだ?」
「――ぼっちゃんは、変わりましたね」
ピタッと、グレイアムの手が止まる。
彼の黒曜石のような鋭利な視線がこちらを向いたかと思えば、口元がニヤリと笑う。
「それはどういう意味だ?」
低い、力強い声にエイベルの背中に嫌な汗が流れる。
長いこと公爵家に仕えていたエイベルには、これがどういう場面かよくわかる。
――選択肢を間違えてはいけない。
ごくりと、と喉を鳴らしたエイベルは、しばしの沈黙ののちに口を開いた。
「……あなたは、誰ですか? グレイアム様ではないですね?」
またしても沈黙。
先ほどはエイベルのターンであったが、今回はグレイアムのターンである。
彼はたっぷり十秒以上黙り込んだ後、やはり見慣れぬ大人びた笑みを浮かべた。
「やはり長年そばにいたものの目は騙せないか」
「――……それは、肯定ととってよろしいですか?」
「そうだ。俺はグレイアムじゃない」
ああ、とエイベルの心にじわりと広がるものを感じた。
それは悲しみや悔しさといった、哀愁の感情。
なぜならこの答えは、同時に別の疑問の答えも出したからだ。
――グレイアムはもう、いない。
生まれた時から慈しみ、この命にかけても守ろうと決めた存在は、あっという間にこの手をすり抜けてしまった。
自分の年齢的にも、最後に支える人になるだろうと思っていたのに。
まさか自分よりも先に、逝ってしまうなんて……。
「エイベル」
「…………はい」
だが悲しんでばかりはいられない。
今目の前にいるこの男をどうするか。
それはエイベルが決めなくてはならないことだ。
「俺の話を聞くか? どこの誰で、どうしてここにきたのかを」
「もちろんでございます」
「……ふむ」
顎に手を当てたグレイアムは、少しだけ考えるようにしてから言葉を紡いだ。
「――俺はこの世界の人間じゃない」
「………………はい?」
どんな言葉でも受け入れ、吟味し、必要ならこの手を赤く染めることも厭わない。
そんなエイベルの覚悟の斜め上をいく答えに、思わず聞き返してしまった。
「……この世界、とは?」
「そのままの意味だ。俺は異世界からの転生者だ」
どれほど彼の言葉を噛み砕こうとも、ちっとも頭の中には入ってこない。
だがそんなエイベルを無視して、グレイアムは話を続ける。
「俺は元の世界で、医者を目指していた」
「…………お医者様、ですか?」
「医者の家系だったんだ。だから考えるよりも先に決まってた。……それが当たり前だと思ってた」
グレイアムの瞳が揺れる。
まるで薄い膜を張っているかのようなその目元は、ほんの少しだけ懐かしそうに細められた。




