撫でる
「……もう、なんだっていうのよ……!」
自分の言いなりで、さらには同じ意見だったはずのヒューバートの反発に驚きすぎたのか、カミラは顔を伏せ手で覆った。
まるでなにも見たいくないと言いたげな彼女に、アビゲイルは小さな声で語りかける。
「……お母様? 私はお兄様の言うとおり、家族を幸せにしたいんです」
「――お前がそれを言うの!? 私を不幸にしたのは、他でもないお前じゃない!」
さすがにヒューバートのように簡単にはいかないかと、すすり泣くカミラの肩にそっと触れる。
普段なら勢いよくはたき落とされるだろうに、この現状がよほどつらいのか、カミラはされるがままだった。
アビゲイルは母の耳元に顔を近づけると、そばにいるヒューバートの耳にすら届かないような小声で囁いた。
「――あの子に、会いたくはないですか?」
「――」
大きく飛び跳ねた肩。
カミラは自分の顔を隠す指の間から、アビゲイルを信じられないという表情で見つめる。
グレイアムが調べてくれた話は、アビゲイルにとって寝耳に水の話だった。
カミラにはその昔、恋人がいたらしい。
男はフェンツェルの伯爵位をもつ貴族だった。
その昔旅行でやってきた男と運命的な出会いをし、二人は恋に落ちたらしい。
しかし二人で愛を育んでいるその裏で、カミラは両親によって王太子妃に担ぎ上げられてしまい、逃げることができなくなってしまった。
一度は男とともにフェンツェルに駆け落ちをしようとしたが捕まってしまい、そのまま王太子妃として嫁ぎ男とはそれまでの縁となってしまう。
――はずだった。
アビゲイルを産んだショックにより産後の肥立ちが悪く、療養として向かった別荘地はフェンツェルに近く、そこでまた出会ってしまったのだ。
運命の男と。
溺れるように愛を語り合った二人の間には、一人の男の子が生まれた。
だがもちろん、そんなこと誰にも言えるわけがない。
エレンディーレの王妃が他国の貴族と不倫し、さらには子どもをもうけたなんて……。
絶対にバレてはならないことだった。
そしてそれは男のほうもだった。
男もまた、妻子がいる身だったからだ。
カミラは泣く泣く男の子を孤児院へと入れ、信頼できるものに監視を頼んだらしい。
だがこの数年、その連絡がぱったりと途絶えてしまった。
理由は簡単。
両国の関係が悪化してしまったからだ。
信用し、子どもを任せたものは逃げたのか、はたまたなにか不幸な事故があったのか……。
とにかく今のカミラには、残してきた子どもの現在を知るすべがないのだ。
どれほど不安だっただろうか?
真に愛する男との間に生まれてきてくれた、本当に愛おしい子ども。
その子どもの安否がわからないなんて、胸が押しつぶされるような思いだろう。
――なんて都合がいいのだろうか。
アビゲイルはカミラにさらに近づき、甘い声で囁いた。
「お母様のご不安はわかっています。ですが安心してください。このことは私しか知りません」
「…………どう、して」
「もちろんお兄様も知らないことです」
アビゲイルは確かめるように、指一本一本に優しく力を込めていく。
「お母様は会いたくないのですか? 愛しい我が子に」
「そんなの――!」
声を荒げようとしたカミラだったが、ここがどこだか思い出したのかすぐに口を閉ざした。
探るように見つめてくる瞳には、小さいけれど希望の光が灯っているように思える。
――そうよ。それでいい。
その希望の光が大きくなればなるほど、アビゲイルにとって都合がいいのだから。
「私がお母様に代わり、その子を探し出します」
「……無理よ。フェンツェルと我が国の関係悪化は、もはや止めようがない。そんな中、なんの情報もないのに、探し出せるわけがないわ……!」
無理だと何度も首を振るカミラに、アビゲイルは優しく微笑む。
気分だけは、慈愛の女神のように。
「がんばります。お母様のためですもの」
「…………アビゲイル、お前……」
「ですがお母様のおっしゃるとおり、難しいことでしょう。ですからどうか……」
カミラの震える手を握る。
まるで凍っているかのように冷たいその手を、アビゲイルは何度もさすった。
自身の熱を、分け与えるかのように。
「どうか、もし弟とお母様を会わせることができましたら、そのときは褒めてください」
「…………」
「――よくやったわねと、一言だけでいいですから」
その言葉を聞いたカミラの瞳に、確かに熱が灯った。
薄い涙の膜を張ったその目元をくしゃりと歪め、カミラはそっとアビゲイルの髪に手を伸ばす。
まるで頭を撫でようとしているかのように。
しかしその前にアビゲイルは立ち上がる。
「今日はこれでお暇いたします。皆様、お騒がせをいたしました」
「――アビゲイル!? もう帰ってしまうのか? まだいても……」
「皆様にご挨拶できましたので。……お兄様。さきほどのお言葉、とてもうれしかったです」
「――そ、そうか!」
嬉しそうに微笑んだヒューバートは、アビゲイルを見送るつもりなのだろう。
後ろにひっついてくるヒューバートを見て、グレイアムが気に食わないと表情に出す。
そんな二人から視線を逸らし、呆然と座るカミラを赤い瞳に映した。
「…………」
伸ばされた手は空を握ったまま、どうしていいかわからないと彷徨っている。
昔はあんなに母に撫でて欲しかったのに。
――今は違う。
そんな簡単な話ではないのだ。
堕とすと決めたのなら徹底的に。
こんなところで、絆されてしまっては困る。
アビゲイルはすぐに視線を逸らすと、踵を返して歩み出した。
それはまるで、母を置いていく子のようで。
「――昔と逆ね」




