周りにある愛
「……なんかもう、頭がいっぱいいっぱい」
少しだけ考える時間をくれとカミラを帰したアビゲイルは、赤く腫れる目元を軽く押さえる。
「まさかお母様にこんなふうに泣かされるなんて思わなかったわ……」
不思議な感覚だ。
母の胸で泣くというのは、あんな気持ちになるのだなと、今ですら少しだけふわふわしてしまう。
こんなタイミングでなければ、もう少し喜べたかもしれないのに。
「……逃げろ、だって」
未だ眠り続けるグレイアムに話しかける。
彼は静かに寝息を立てるだけで、答えてはくれない。
「まさかお母様から言われるなんて思わなかったわ」
ヒューバートあたりが手配すると騒ぐかと思ったけれど、まさかのカミラだ。
自分の財産を全て投げ打ってまで、アビゲイルを逃そうとしてくれるなんて……。
そっとグレイアムの手を握る。
「――逃げちゃう? 一緒に……」
公爵でも、王女でもない。
ただの人として一緒に生きるのだ。
小さな赤い屋根の家を買おう。
庭が大きくて、そこでグレイアムが野菜を育てるのだ。
アビゲイルは家の中で料理を作って、窓からグレイアムに声をかける。
汗を拭うグレイアムが振り向いて、微笑んでくれて――。
そんな幸せな未来を、想像してみる。
「――………………ダメね。ダメすぎるわ」
なによりも幸せだろうそんな夢は、幻想でしかないのだ。
きっとアビゲイルもグレイアムも、逃げた先で笑い合うことはできないだろう。
だってアビゲイルが逃げるということは、それ以外の全てを捨てるということ。
ヒューバートやカミラ、アリシアや公爵家の人たち。
オルフェウスやシリル、学院の人々……。
全員、戦火に巻き込まれてしまうかもしれない。
「……笑えるわけ、ないわよね」
誰かの悲しみの上に立って笑うなんて、できるわけがないのだ。
アビゲイルは立ち上がると、グレイアムの枕元へ向かう。
「――行くわ。私……。チャリオルトへ」
まさかこんな決断を自分がすることになるとは思わなかった。
どうなろうとも向かうことにはなっただろう。
けれどまさか、こんなふうに決断するとは思わなかった。
決めてはもちろん――カミラだ。
あの母が涙を流してアビゲイルに逃げろというなんて、誰が想像できただろうか?
「……最初は復讐しようとしていただけなのに。まさかこんなふうになるなんて」
グレイアムの頰に触れる。
その黒曜石の瞳が開かれることはないのだろうけれど、今――とても恋しいのだ。
「愛を向けられると……愛を返したくなるのね」
カミラからの愛を、返したくなる。
ありがとうと、伝えたい。
「私に愛を与えてくれたのは、あなたよ。だから私の中にある愛情は……全部グレイアムのもの」
あんなに愛を求めていたのに、気づいた時にはアビゲイルの周りは愛であふれていた。
けれどその中心にいるのはグレイアムなのだ。
だから伝えよう。
これが……最後になるだろうから……。
グレイアムの額に己の額をつける。
ぽたりと涙がこぼれ、彼の頰を伝う。
「愛しているわ、グレイアム。あなただけを……心から」
彼の唇にそっと口づけを送る。
ずっとずっと、このままでいたい。
グレイアムと離れたくない。
一緒に公爵家に帰って、美味しいご飯を食べて、一緒のベッドで眠るのだ。
そんな日々を、明日も明後日もと願ってしまう。
けれど時は残酷で……。
グレイアムの眠る部屋に、朝日が差し込んでくる。
それは始まりの朝で、別れの朝でもあった。
「――さようなら、グレイアム。……どうか、幸せになって」
こうして、アビゲイルはグレイアムの元を去った――。
「――で? 覚悟は決まったのか?」
翌朝。
王宮の応接間にて、アビゲイルはイスカリと対峙していた。
その会場にはヒューバートやオルフェウス、アリシアとカミラもいる。
カミラは会場に現れたアビゲイルを見て、苦々しい顔をしていた。
そしてそれは、ヒューバートもだった。
「…………アビゲイル」
「お兄様」
「行くな。行かなくていい。……だってお前は、グレイアムを…………」
ヒューバートはそれ以上言わなかった。
アビゲイルの表情を見たからだろう。
きっとなにを言ってももう無駄なのだと、察したのだ。
絶望したヒューバートの表情に、アビゲイルは笑みを返す。
「大丈夫です、お兄様。……あなたのせいではありません」
「――…………僕のせいだ。僕がもっと……強ければ…………」
ヒューバートのせいではない。
これは誰のせいでもないのだ。
それなのに傷つき崩れ落ちそうなヒューバートの肩を、アビゲイルは強く掴んだ。
「お兄様。――この国を、頼みます」
「………………――っ、わかった」
それでもギリギリ崩れなかったヒューバートに、アビゲイルは安心した。
きっともうヒューバートは大丈夫だ。
だからと今度は視線をアリシアへと向ける。
「――お母様とお兄様のこと、頼むわね」
「…………はい」
なんとも言えない表情をするアリシアにはそれだけ告げて、最後にオルフェウスを見る。
彼もまた眉間に皺を寄せ、痛みを我慢するような表情を浮かべていた。
「アビゲイル王女。……お礼を、伝えるべきなのでしょうね」
「不要です。私は私の国のためにしたのですから」
結果的にフェンツェルも戦火に巻き込まれることは無くなった。
それの礼なのだろうが、そんなのは不要だ。
「でももし、借りを感じているのなら……エレンディーレのことを頼みます。オルフェウス陛下のお力添えがあれば、この国はさらに素敵な国になるはずです」
「――もちろんです」
協力関係は続行だ。
彼にはせいぜい、両国のために努力してもらわないと。
深く頷くオルフェウスから視線を外し、今度こそイスカリの前へと向かう。
「答えを聞こうか? まあ、もう出ているようだがな」
差し出される手を無視して、アビゲイルは足を進める。
振り返ることはしない。
悲しみも苦しみも、愛も全て。
グレイアムの元に置いてきたのだから。
「――行きましょう。チャリオルトへ」
三章 完
次章で最終章予定です!
最後まで走り切りますのでよろしくお願いします!




