母の愛
「俺は寛容だからな。答えは明日の朝まで待ってやる。――よく考えろ。己の選択でどれだけの人が死ぬかを」
イスカリはそれだけいうと、鼻歌混じりに部屋を出て行った。
絶望に静まり返った部屋では、誰一人として口を開けることはなかった。
そんな最悪な空気感で、会談は終わったのだった――。
「……本当に、最悪ね」
アビゲイル用にと用意されていた王宮の部屋で、ベッド脇の椅子に腰を下ろしていた。
ふわふわのベッドには、グレイアムが眠っている。
「とんでもないことになっちゃった」
アリシアからグレイアムの傷はもう大丈夫だと言われた。
実際医者からも傷らしい傷がないと言われたほどだったので、アリシアの癒しの能力は素晴らしいものなのだろう。
怪我は完治した。
しかし血を流しすぎたことと、なによりも撃たれたショックからか、グレイアムが目を覚ますのは当分先だろうと言われた。
「そういえば、どうして私……終焉の神の力を使えたのかしら?」
彼に体を乗っ取られたわけではない。
自らの意思で力を使うことができた。
まるで指先を動かすかのように、容易く。
「――私、どうしたらいいのかな?」
憔悴しきっているアビゲイルを心配してか、眠るグレイアムと二人っきりにしてくれたのはありがたかった。
――独り言でも、心の内を彼に伝えることができるから。
イスカリからの提案は簡単だ。
アビゲイルが彼の妻として、チャリオルトに行けばいい。
それだけでエレンディーレは助かるのだ。
「――なら、そうしなきゃよね……」
アビゲイルは一人の人間ではあるが、王族でもあるのだ。
いつかは望まぬ結婚を強いられるかもしれないと、考えなかったわけではない。
特にイスカリの妻として娶られた、ミュンヘンの王女メリアの話を聞いてからは……。
本人の意思なんて関係ないのだ。
国の利益のために、しなくてはならないこと。
たとえアビゲイルに婚約者がいたとしても……だ。
「……グレイアム…………私、どうしたら――」
反応するわけでもないのに、思わず話しかけてしまった時だ。
扉の外から声がかけられ、予想外の人が中に入ってくる。
――それは険しい顔をした、母、カミラであった。
「――お母様……? どうしてこちらに……?」
「……公爵はどうなの?」
「え? あ、いえ……。まだ、目覚めません」
母、カミラが神妙な面持ちで口を開いたと思えば、対して興味もなさそうにグレイアムの容態を聞いてくる。
彼女はスタスタと歩いてくると、アビゲイルの前までやってきた。
「チャリオルトに行きなさい」
「――…………」
やはりその話かと、アビゲイルは眉を寄せる。
そんなアビゲイルの表情に気づきつつも、カミラは話を止めるつもりはないようだ。
「あなたはエレンディーレの王女。――考えなかったわけではないでしょう?」
「…………それは」
「アビゲイル。国のためよ」
ぐっと、力強く唇を噛み締めた。
そんなこと言われなくてもわかっている。
誰もなにも言わなかったけれど、思っていることだろう。
アビゲイルが行けば、全てすむのだと。
だからこそ今、覚悟を決めようとしているのに……。
どうしてそんなことを言ってくるのだと、アビゲイルは濡れる瞳でカミラを強く睨みつけた。
「――……あなたが行かなければ、この国は戦争になるわ」
「わかっています。――だから今、私は……!」
グレイアムに最後の挨拶をしようとしていたのに――。
力強く握りしめた手で、必死に目元を隠す。
涙を見せたくないと、必死に堪えようとする。
そんな小刻みに震えるアビゲイルを見て、カミラは静かに告げた。
「…………あなたなら、そうするでしょうね」
「――なにが、言いたいんですか……?」
「あんな扱いをしていた子どもに、最後の最後は頼らなければならないなんて……。情けない親よね」
なにが言いたいのかわからない。
カミラの様子が変わったことに困惑するアビゲイルに、彼女は手に持っていた大きめなカバンを一つ差し出した。
「――だからこれは、母親としての最後の忠告よ」
「……お母様?」
「逃げなさい。夜中のうちにエレンディーレを発ちなさい」
なにが起きている。
アビゲイルが差し出されたカバンを受け取れば、それはずっしりと重たい。
「私が持つ宝石やアクセサリー、可能な限り集めた財産が入ってるわ。これだけあればどこの国でも暮らしていけるはずよ」
確かに言われてみれば、いつもつけているアクセサリーをカミラはつけていない。
全てをこの中に入れたのかと驚くアビゲイルの肩を、カミラは強く握りしめた。
「こんなこと……言ってはダメなのはわかってるわ。王太后として、あなたを行かせなきゃいけないのもわかってる――でも」
アビゲイルは信じられないものを見ている気分だった。
あの母が、目の前で泣いているのだ。
――アビゲイルを想って。
「愛する人と結ばれないつらさは、誰よりもわかっているつもりよ。……だから、行きなさい」
「――お母様……」
「公爵と一緒に行きなさい。今夜のうちに馬車を用意させます」
「でも――!」
「アビゲイルっ!」
力強く握ってくる手のひらが、とても熱い。
――いったい、なにがどうなっているんだ……?
「時間が迫ってるわ。……これが、公爵といれる最後のチャンスになるかもしれないのよ」
アビゲイルの瞳からは、耐えられないと涙がこぼれた。
どうしてこうなるのだ。
なんで……。
「お母様……っ。私――っ!」
「…………アビゲイル。心の底から愛せる人に会えたこと。……それは奇跡なのよ。だから……大切にしなさい」
母の胸に抱かれて、アビゲイルはボロボロと涙を溢れさせた。
この温もりが欲しくて泣いたあの日々とは違う。
誰かを想って泣く涙がこんなにつらいなんて……。
あのころは知らなかった――。




