第十四章 唇歯輔車(2)
だが、特に大きな事件に発展するようなことはないと記憶していた。
「斎藤さんも、そんなに心配することもないと思いますよ?」
「……」
窘める意味で告げたつもりだったのだが、伊織の一言を受けた斎藤は、やや顰蹙の眼差しを向ける。
そうしてそのまま、再び開口する事なく、斎藤は副長室を後にして行ったのだった。
(……親切で言ったつもりなんだけどなあ)
しかし、それも先を知る由もない斎藤にとってみれば、ただの気休め程度にしか取れなかったのかもしれない。
結局ここでは、己は特異な存在にしか為り得ないのだろう。
そして。
この幕末の時代を過ごす時が長くなるにつれて、徐々に、本当に少しずつ、自分の平成での記憶が薄くなっていくのもまた、現実だった。
この時代の流れていく先の出来事も、だんだんに曖昧さを帯びていく。
確実だと思っていた史実が、少しずつあやふやに思えてくる。
(――怖いな)
自分にとって、未来の知識は生きるための強力な武器。
もし、それが間違いだらけのものだとしたら。
縁が欠けて、僅かに白い切り口の覗く湯呑みに視線を落とし、伊織は微かに吐息した。
と、その自らの吐息で、伊織ははっと我に返る。
(駄目だ、駄目だ! それなら、行動で知識を補うしかないじゃないか!)
二、三度頭を振って、伊織は一つ強く頷く。
自身ですら疑わしい知識を、他の誰が信用などするものか。
近頃では、ここへ来た当初とは別な意味合いで不安を感じることが多い。
平素、関わる事の少ない斎藤でさえも、それを具に見抜いていたのだろう。
そう思い直し、伊織は表情を引き締めて立ち上がった。
(よし! それなら、今度のことも局長が外で何をしてるのか、この目で確かめよう)
永倉や原田の見ていないところで、実際に近藤がどうしているのか。
この目で見た事実ならば、何に怯む事もなく、動く事が出来る。
会津藩や、先日の高木時尾の件も気に掛かる。
だが、今は何より、この新選組の中で、己の位置を確立する事が最優先ではないか。
改めて気合を入れ直す伊織。
「……あ」
それと同時に、手元の湯呑みの存在に再び気付いた。
「どうしよう、これ……」
***
「てめぇは掃除もまともに出来ねえのかっ!!」
キンと耳を劈く怒号が、副長室に轟き渡った。
今、伊織の目の前には、自らが割ってしまった湯呑み茶碗と、ぎりぎりと眉を引き吊り上げる土方の顔。
折角素直に申し出て謝罪したというのに、それでも土方は大激怒である。
そんなに茶碗一つが大事なのか。
「……すいませんでした」
憮然として再度詫びると、土方はますます睥睨の目を険しくする。
しかし、それから大儀そうに息を吐くと、土方はゆるりと腕組みを解いた。
「……まあ、やっちまったもんは仕方がねえ」
怒鳴って漸く諦めが付いたのか、土方の口からそんな一言がこぼれる。
同時に、伊織もやっと胸を撫で下ろした。
「そんなにお気に入りだったんですか、これ? 可愛いところあるじゃないですか、土方さん」
「うるせえ。俺ァ、おめえの不注意さ加減に腹が立ったんだ!!」
そう言って、顔を背ける土方。
和らぐどころか、雰囲気は一層気まずい。
少し軽口が過ぎたかと、少々反省を覚えた時。
副長室を尋ねて来た者があった。
「副長、失礼します」
凛然とした立ち居振る舞いは常からのまま、尾形がやや表情を硬くして入室した。
「ああ、尾形君か。どうした」
「報告が」
すっと畳を擦る音も小気味良く、土方の前に膝を詰める尾形。
と同時に、尾形は伊織に一瞥をくれる。
妙に深刻そうな目付きから、それが暗に報告の邪魔だと言っているのが分かる気がした。
(……どうせ、永倉さんたちのことでしょうよ)




