第十二章 有為転変(7)
土方の声だ。
そっと抜けてきたつもりだが、やはり土方も気が付いていたらしい。
「何ですかッ」
木陰にしゃがみ込んだまま、慌てて涙を拭おうとすると、突如その手を掴み上げられる。
「! いった……! 何するんで……」
「あいつの死んだ意味が分かるか」
今はもう涙の痕もない土方の怜悧な表情が、そう尋ねる。
余りに唐突な詰問に、伊織が戸惑っていると、土方は尚も続けた。
「あれが本物の武士道ってもんだ。少なくとも、俺はそう思っている。おめえはどうだ」
「……どう、って」
つい今し方、疑問を抱いたことへ、ここでどう答えれば良いのか。
あんな最期はおかしい、と、そう言えば、きっと土方とは対立した所見となるは明白。
ついて来れぬようなら、途端に切り捨てられそうな気配さえあった。
だが、だからと言って己に嘘も吐けない。
結果、伊織は暫時沈黙を余儀なくされた。
「新選組の掲げる士道も、ああいうもんだ。おめえもそうやって泣くぐれえなら、よっく理解してるんだろ」
掴まれたままの腕が、やや軋むほどの力強さ。
「池田屋で人斬ったぐれえで腰が引けてちゃあ話にもならねえ」
「……やっぱり気付いて……?」
こちらが塞ぎ込んでいても、何も語りかけようとしなかった土方。
だが、伊織の予想は大方で当たっていたらしい。
気付いていながら、土方は敢えて放っておいたのだ。
「覚悟は出来てたんじゃねえのか?」
池田屋討ち入りの日、伊織が口走った言葉を、土方は今、もう一度問う。
「今抜けるんだったら、考えてやらねえこともねぇんだぞ」
暖かくもなく、冷たくもない声音だからこそ、伊織はその一言に窮する。
他に行く当てなどないと、知っているはずなのに。
「斬った斬られた、死ぬの生きるのと、んなこたァ茶飯だ。今のおめえを見る限り、ついて来れそうにゃとても見えねえな」
珍しく口数が多い土方を前にしながら、黒谷からの帰途での出来事がふと蘇る。
「――生き抜け、と。臆するな、と言われました」
虚ろに思い出すまま呟くと、土方の手の力が微かに弛んだ。
「誰に」
「だから、話したじゃないですか。私にそっくりな女の人ですよ……」
確かこの話は、途中でおざなりになっていたか、と思い起こすが、こちらにしてみれば結構気になる重要な出来事だ。
はじめ、不思議そうに伊織を見下ろしていた土方だが、やがて短く吐息混じりに笑うのが聞こえた。
僅かな嘲りも含んだような、その声。
「新選組にいて、臆することなく生き抜いていけんのかよ」
「……」
じろりとねめつける土方を、思わず伊織も睨み返す。
急に険悪さを帯びた空気の中で、一つ、伊織は息を詰まらせた。
「……もう、私は人を殺めています。普通に戻る事なんて、今更ですよ」
「だったら、これからも刀は握れるんだろうな?」
「それは――」
「即答出来ねえのは覚悟が足りてなかった証拠じゃねえのか。怯懦は即ち士道不覚悟。今日これを機に、腹決めて貰おう」
土方の声がいやに冷たく感じられた。
いつまでも、甘やかしているわけにはいかない。
そう、突き放すような声が耳に響いた。
先まで暗涙にむせんだ、直情径行な土方の姿は、とうに消え去っていた。
「新選組はおめえが思うほど、甘えところじゃねえ。ここで生きるつもりなら、とっとと腹括っちまえ。それが出来なきゃ会津にでもどこでも帰りゃいい」
最後に言い捨て、土方は背を向けた。
再び葬儀会場へと去り行く、土方の背中を見詰め、伊織はじっと立ち尽くした。
元々、その人は武士ではない。
豪農の子として育ち、武士になりたいと願った人なのだ。
だから、だろうか。
武士としての忠義や信念に、誰よりも過敏であるように感じた。
同じ農民の子である、局長の近藤以上に。
同時にそれは彼の優しさであり、伊織への配慮かも知れない。
「――私は」
人を斬る事は怖い。
生と死の狭間に生きることに、背筋だって寒くもなる。
こんな自分でも、武士になれるのだろうか。
彼らと共にあることは。
自らもまた武士として生きる。
そういう事だ。
胸中に、土方の見せた涙が、染み入るようであった。
「会津に行ったって、どこにも身寄りなんかありはしませんよ――」
生き抜く。
それは何故か名も知らぬ女に課せられた、もう一つの己の試練。
いざ窮地に立てば、刀を抜いて戦おうとする。
池田屋の時も、ついこの程刺客に襲われた時も。
自分の中の無意識に、怯えているだけなのだ。
涙の痕の残る頬を、ぐっと拭い、伊織は勢いを付けて立ち上がる。
「……ついて行きますよ、ちゃんと」
その為に、もっと強くならなければいけない。
腕も無論、刀を携えるだけの度量を、自ら持たねばならない。
蒼穹を一仰ぎし、伊織はきりりと目元を引き締めた。
幕末の世に、呼ばれた。
それが本当なら、自分は少なくとも必要とされてこの時代にいることになる。
そして、生き抜く事を求められるなら、何が何でも生き延びて行かなければならないのだろう。
何のために、誰のために呼ばれたのかは、未だ判然としない。
だが、それがこの土方のためであれば良いと思う。
この人と共にあるために呼ばれたのならば、生きるために斬る事も、生かすために斬る事も、躊躇う必要などない気がする。
きっと、仮にいつか己が柴のような立場に置かれたとしても。
自分に酷似したあの女に、もう一度逢えることを願うと同時に、伊織は一人静かに双眸を閉じた。
忠義に篤く、真の士道を貫いた彼の死を、今はただ只管に悼むために。
【第十二章 有為転変】終
第十三章へ続く




