第九章 旗幟鮮明(7)
いくら緊張が一つ解けたからと、これはさすがに土方もぐったりと気落ちした。
平素のこれさえなければ、監察方は優秀な人材揃いなのに。
「んで、さっきから気になってんだが」
土方は奥歯を噛み締めながら、ついでとばかりに山崎に尋ねる。
「俺ァたった小半刻、部屋を開けただけだ。ところがどうだ。出る前にはそこに養生してた伊織が、戻った時にゃ忽然と消えてやがる」
これはどういうことだか、と。
「……副長も過保護すぎんのとちゃうか。大方、隣の部屋にでもおんねやろ」
面倒臭そうな答え方をした上に、山崎は胡乱な眼差しでぺッと唾を吐き捨てる。
土方の脳内で、何かが音を立てて崩壊した。
「てッ、てめェ……! 汚ぇなゴラァ、やまざきゃァアー!!!」
「ああもう、やかましい。さっき沖田はんと何や仲良うしたはったで」
「あんのガキども……!」
***
京都の夏の匂い。
それは初めて味わうものだった。
きっとこれから、もっと多くのことをこの身に刻んでゆく。
伊織は畳の上にだらりと横たわる沖田へ向けて、はたはたと団扇の風を送った。
「沖田さん、これからもよろしくお願いしますね」
控え目に声をかければ、沖田はむくりと顔を上げて、ニッと前歯を見せる。
「こちらこそー」
平穏の時。
……であるはずだった。
遠雷にも似た足音が突如として起こり、次の瞬間にはその穏やかな空間を瓦解させるかのごとく、鬼が現れた。
「てめーェらァーッ!! まとめて医者に行けってんだよ! 切腹だコラ!!」
「ギャア! すいません! 連帯責任連帯責任!」
虫の居所の頗る悪そうな土方に縮み上がり、伊織は即刻その場に平謝りを繰り返した。
ところが沖田は。
「わー。なまはげが出たー」
と、面白そうに笑うばかり。
さすがだ。
(私もまだまだ頑張らないと……)
沖田のように泰然自若と振舞うことが出来るのには、まだ果て無く修行が要るだろう。
「誰がなまはげなんだよ!」
「ちょっと土方さん、機嫌悪いからって八つ当たりしないでくださいよ」
「うるせェ! てめーらは心配ばっかりかけやがるし、どっかの馬鹿親子は脱走するし、山崎は唾吐きやがるし!!!」
「あはは。唾吐かれたんですか?」
山崎は兎も角、馬鹿親子というのは馬詰らのことだろう。
「それって馬詰さんですよね? 脱走したの。息子さんのほうが、何処かの子守女中を孕ませちゃったらしいですよ」
と、確か記憶にあるのだが。
すると、土方も沖田もぱちくりと数回瞬きをした。
「おい、本当のことなのか、そいつは」
「え、確かそうだと思いましたけど……」
「へえー、馬詰君、そうだったんだ。これは土方さんもぐうの音も出ないや」
土方の過去の所業を示してか否か、沖田は意味深に含み笑う。
「一部の隊士にからかわれたりしてたらしいですから、肩身狭くなっちゃったんでしょうね」
「……だっから、てめーも何でこういつもいつも後になってから教えやがんだよっ!」
後から教えるのは、一応伊織なりに配慮してのこと。
だが、その部分も理解して貰うまでの道程はまだ遠そうである。
***
寝巻きから単衣に着替え、伊織は沖田と連れ立って屯所の裏門へと歩いていた。
いつまでも医者へ行けと言ってきかない土方に、二人仲良く部屋を放り出されたのだ。
外は茹だるような暑さだ。
「どうでもいいですけど、私、お医者の宛てなんてさっぱりなんですけど?」
「……私も知りませんね。ちょうど良いじゃないですか、何処かで暇を潰して来ましょう」
「沖田さん、それも連帯責任でお願いしますよ?」
だらりだらりと足を引き摺るようにして、時折額の汗を拭う。




