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新選組秘録―水鏡―  作者: 紫乃森統子
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第八章 疾風勁草(6)



 命を落とすことはないと頭の中を網羅する知識で理解してはいても、いざこの場に来てみれば、ひどく不安を掻き立てられた。

 もし、倒れたところに敵の刃が振り下ろされでもしたら。

 もし、自分の知る未来が急に変わってしまっていたら。

 そんなことがあり得る筈がないと思うのと並行して、次々と『もし』が浮かんでくる。

 伊織は暗闇の支配する階上を見据え、血濡れた脇差を今一度握り締めた。

「局長ォー!! 高宮伊織、助太刀に参ります!!!」

 腹の底から威勢良く声を振り絞り、言下、伊織は急勾配の階段を駆け上がった。

 激流する水のような音が、自らの足音だとは、この時僅かも気付く暇はなかった。

 昇りきる寸前、こちらへ逃れてきた浪士が階上で慌てふためいて踵を返そうとするのが見えた。手負いのためか、或いは浮き足立って足が縺れたのか、奇声を発しながら転び転び逃げ惑う。

 駆け上がった伊織に追い付かれ、それでも往生際悪く太刀を握った右手を散々に振り回し始める。

 こいつも相当にやられているらしかったが、伊織は真っ直ぐに敵浪士を見下ろし、滅茶苦茶に向けられる剣先を払い退けた。

 弾き返せば返す毎に、敵の太刀は無闇やたらに攻め込んでくる。

 邪魔だ。

(これを片付けなければ進めない)

 手負いの上に錯乱状態にあったにしても、敵は敵だ。

 大人しく縄につく気配もなし、斬らずにここを通ることも出来そうにない。

 視線は浪士から離さずとも、声と気配ですぐ左手の部屋から二、三人がもんどり打って転がり出てくるのがわかった。

 今となっては、もう迷いなど毛筋ほどもなかった。

 やらねばならない。

 やらなければ、末路は一つ。

 伊織は次の防御で間合いを詰め、一気に脇差を突き立てた。

 心の臓を貫いたつもりだった。

 ぱくぱくと大口を開けて痙攣する身体から一息で刀身を引き抜き、逃げ場を求めて階段を目指してきた者を一人袈裟斬りにし、一人階段下に蹴落とし、最後に一人突きを入れる。

 最初の袈裟斬りが浅かったか、怒声と共に真横から伊織を突き太刀が襲う。

 瞬時に脇差を引っこ抜いて身をかわそうとしたが、一瞬遅れを取った。

 防具の重さが予想以上に重心の移動を遅れせしめた。

(やられる……!)

 瞬時に覚悟のようなものが脳裏を過ぎたが、凶刃は伊織の右上腕を抉った。

 どっと流血し、咄嗟に右腕の怪我を押さえる。

 呻き声を喉の奥に呑み込み、伊織は敵の正面に向き直った。

 致命傷ではないが、これで剣は思うように扱えなくなってしまった。

 深くもないようだが、浅い傷でもない。焦燥にどっと汗が噴出すのを感じた。

 続け様に突きの体勢で突進してくるのを見た時、伊織は両の目を固く瞑った。

 だが、伊織がそれに斃れることはなかった。

 変わりに何者かの足音が怒濤のように駆け上がってくるのが聴こえ、それが止むと同時に苦痛に歪んだ断末魔の声が上がる。

「高宮、無事か!!?」

 暗がりで聞き覚えのある声がした。

 顔を上げればそこには、浪士を斬り捨てたばかりの永倉がこちらを見ていた。

「馬鹿か、こんなところで蹲ってたら死んじまうだろ!?」

「な、……永倉、さん……」

 永倉の出現で一気に気が抜けてしまい、同時にそれまで朦朧としていた右腕の痛みの感覚も、急速に鮮烈になる。

 気がつけば、息も上がっていた。

「下にいた、あれをやったのはあんたか?」

 あれ、とは宮部のことに違いなかった。

 途端に複雑な思いに駆られ、伊織は瞑目して静かに頷く。

 真っ当な斬り合いでなく、最後は宮部の自刃であった。

 史実通り、それはそれで良いのだが、一対一の戦いとして見れば、宮部の勝利であるような気がしないでもない。

 それが些か慙愧として心に蟠るところがあった。

「やられたか」

「深くはないです、大丈夫……」

 互いに返り血で汚れきった顔を見合わせ、無事を確認し合う。

 伊織の負傷を気遣う永倉の手を見れば、親指の付け根が抉られ、滾々と血が湧き出している。

「永倉さんこそ、その手!」

「あー……これな、大したことねえって。平気平気。ほら」

 平気だと知らしめるためか、永倉は負傷した手をぶんぶんと振ってみせるのだが、振る度に手から血液が迸る。


 

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