第二十七章 多事多端(5)
「なるほど、聞き及ぶ通りに奥ゆかしい人のようだ。隊士たちの間では親切で優しいと専らの評判だ」
ふむふむ、と伊東は幾度も頷きながら、山南の傍らに膝を折る。
その視線が書見台をちらと窺った。
「おや、論語かい? 私も擦り切れるほど読んだものだよ」
学問所へ上がれば必修とされる、四書五経の一つである。
武士であれば、それらは基本の教養だ。
時にハッとさせられる言葉もあり、迷いを振り切る一押しになる言葉もある。
我が身を省みる機会をくれる言葉が、そこにはあった。
「山南君。『速やかならんを欲するなかれ、小利を見るなかれ』」
唐突に、伊東の口から出た一節に、山南は意表を突かれた気がして目を丸くした。
「……『速やかならんを欲すれば即ち達せず。小利を見れば、即ち大事成らず』、ですね」
「ふふ、どうも」
続く一節を山南が返すと、伊東は満足げに笑う。
有名な一節をただ述べただけだというのに、それほど嬉しいものなのか。
「このところの長州の内情は、聞いているかい。あれから長州では俗論派が優勢だそうだ。先の御所発砲の責任という名目で、正義派の三家老を切腹させたという」
「家老を三人も、ですか」
確かに、長州の放った砲弾が御所に着弾したことの責は大きいだろう。
だが、俗論派がその優勢に乗じて正義派を壊滅させんとする狙いが、その措置に顕著に表れている。
「そのようだね。これを受けて、長州の正義派が更なる暴挙に出る恐れがある」
長州も一枚岩ではない。
八月十八日の政変並びに禁門の変を引き起こした一派を正義派、長州内での佐幕派を俗論派と呼び、それとはまた別に二勢力の争いの鎮静を試みる一派があった。
「長州は、間もなく内乱になるでしょうね」
「正義派の反発は必至だろうからね。長州がどの立場になるかでは、幕府からの派兵もあるやもしれない」
その時は新選組にも出兵要請が来るだろう。
新選組でも、長州出兵を念頭に入れた行軍録を練り出したところだ。
「新選組は、そもそもは勤皇であり佐幕の集団だ。天皇ありきの佐幕だと聞いている」
しかしながら、と伊東は続けた。
「本来帝こそが政の中心であるべきでないかと考える者もいる。幕府の威光は今や地に落ち、政の実権を握り続けるには不適格だろうとさえ、ね」
事実、開国を迫られ、交易を始めて以後、多くの金が国外に流れ出していた。
流通する貨幣にも、徐々に悪銭が混じり出しているとも聞く。
「これが広がれば、どうなるだろうか? 昨日まで三文で買えた団子が、翌日には六文なければ買えなくなり、一月後には一串三十文にまで値上がってしまうかもしれない」
「経済が破綻、してしまいますね」
「そう、夷狄に搾取され尽くして、この国は崩壊してしまう」
その意味でも、攘夷は必要不可欠なのだと説く。
幕府の弱腰の外交では、国内に更なる混乱を招きかねない、とも。
「伊東さん、あなたは──」
何事か言いかけた山南を制し、伊東は人差し指を軽く口元に当てる。
「近藤君……いや、局長や土方君と話していて、君も私と同じ思いなのではないかと推察してみただけなんだ」




