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新選組秘録―水鏡―  作者: 紫乃森統子
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第二十三章 千荊万棘【前篇】(2)



「遅いなー、広沢さん。何やってんのかね、あのナマハゲは……」

 思わず不満をぽつりと零した伊織の耳に、どこからか近付いてくる衣擦れの音が聞こえた。

(うわ、ナマハゲって言った途端に帰って来たっぽい…!)

 ややあって、足音は広沢の部屋の前で止まり、次いで静かに障子の滑る音がする。

「広沢さん、遅いじゃないですかー。呼び付けておいて酷い――」

 言いながら振り返った伊織の視線の先にいた者。

 それは、広沢ではなかった。

 広沢よりももう少し年齢を重ねたような、武骨さの漂う男。

 伊織もその名は幾度か耳にし、姿も何度か見かけたことはあるものの、まだまともに口を聞いたこともない人間だった。

 手代木直右衛門――。

 佐々木只三郎の実兄だという、その人であった。

「なんだ、広沢はおらぬか」

 手代木は部屋の中をぐるりと眺めてから、正座したまま見上げる伊織に目を向ける。

「奴はどこへ出ているんだ?」

「いえ、それが、私も広沢さんから呼び付けられてここで待ってるんですけど、待ちぼうけを食わされていて……」

 伊織の返答に、手代木はげんなり吐息する。

「……そうか。ではまた改めるとしよう」

「はぁ、そうですか」

 伊織には興味も示さぬ風にくるりと踵を返す手代木を、その動きに合わせて目で追った。

 その時だった。

 たった今手代木が引き開けた障子戸の外側、まだ広沢の部屋からは遠いところで、どすの利いた声が口論しているのが聞こえてきた。

「ええい放さぬか! ならぬものはならぬ!」

「そこを何とか、この通りだっ! 頼む、ほんの一刻だけでもぅおおおお!!」

「煩い! あれにはたんまり仕事を申し付ける故、お主の道楽に付き合わせてはおられん! っておい! 寄るな! 触るな! 纏わりつくなァアアア!」

 廊下の向こうから徐々に近づいてくる口論の声は、どうやら片方は広沢のものであるらしい。

「帰ってきたみたいですね、広沢さん。私の用は後でも構いませんので、手代木さんの御用件を先に――」

 言いかけたと同時、俄かに口論の声が途切れ、廊下の床板が割れんばかりの足音が急激に接近した。

 それとほぼ時同じく。

 びしゃん! と手代木が無言で障子戸を締め切ったのであった。

「えっ、なに……」

 何事かと動揺したのも束の間のこと。

 次の瞬間には障子戸の向こうに広沢の影が映り、障子紙を破く勢いで戸を平手打ちし始めた。

「ばっ、誰だ!? ここは私の部屋だぞ!? 開けろっ!! 開けてくれぇえええええ!!」

「許せ広沢! そうなってしまった以上、我が手には負えぬ!」

「そそそその声は手代木殿かっ!? くっそう、何の恨みがあってこんな真似を!? 早くここを開けろ! そして何とかしてくれっ!」

 悲痛なまでの広沢の声が喚いているが、手代木に障子を開ける様子は微塵もない。

 両手は愚か、身体全体を惜しみなく使って障子を抑えている。

 そうして手代木は伊織を見遣ると、手伝え、と視線で指示をする。

「そこにつっかえ棒があるだろう、早くせぬかっ。只三郎の餌食になりたいのか!?」

 障子を一枚隔てた向こうからは、爽やかな朝に似つかわしくない、ぬおーんぬおーんという不気味な鳴き声と広沢の悲鳴が聞こえる。

「なんだ、手代木さんも分かってるんじゃないですか。広沢さんを襲ってるの、佐々木さんなんですよね」

 何となく、というか、こういう騒ぎの時は大抵佐々木が元凶だったりする。

 そのことはもう、伊織などにとっては豊富な経験から大凡察しのつくことであった。

 やれやれ、と一つ息を吐いてから、伊織はやおら立ち上がった。

 その足で、がったがったと今にも外れそうな程に叩かれている障子に歩み寄る。

「手代木さん、ここは私にお任せを」

「何ィ!? お主、早まるでない! 世を儚むにはまだ早過ぎる!」

 一体この人は、曲がりなりにも自身の弟を何だと思っているのか。

 少々呆れた実兄だが、気持ちとしては伊織も痛いほど解る。

(もういっそのこと、佐々木さんが世を儚んでしまえば丸く収まるのになぁ)

 黒谷に来ても、佐々木に纏わる騒動からは逃れられないらしい。

 そんな重々しい嘆息の後、伊織は手代木を押し退けて障子に手を掛ける。

 障子は、落雷の如き轟音を立てて開け放たれたのだった。



 

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