第二十三章 千荊万棘【前篇】(1)
黒谷、金戒光明寺。
京都守護職、松平肥後守の本陣である。
紅葉は未だ盛りを迎えてはいないが、微かな朝靄の中で色づき始めたその景色は、なかなかに見事なものだった。
(朝ぼらけに見る景色も、趣のあるものよ)
暁光に包まれ始めた庭園を眺つつ、広沢は清々しい気分で厠から出る。
と、偶然にも梶原と鉢合わせた。
互いに挨拶を交わした以後も、何故か梶原は広沢と同じ方向へと廊下を歩く。
自然、連れ立って歩いているような形になってしまったのだった。
「時に梶原殿。あやつは一体いつまでお預かりすれば良いのだろうか?」
「あやつ、と申されると……、はて?」
「はて? ではござらん。あのさっぱり役にも立たぬ――」
高宮伊織のことだ――
そう言いかけた刹那、広沢の視界の隅を色鮮やかな人影が通り過ぎた。
瞬きする間に死角へ入ってしまったが、瞬間的に見えた着物の鮮やかな彩りは、黒谷に詰める武士や中間、ましてや小者の着るものではない。
それは人目をはばかるような忍び足に、加えて非常にすばしこい動きの人影だった。
「梶原殿、今の人影をご覧になったか?」
「ああ、名賀様だろう。時折ああして気ままに出歩いておられるようだからなぁ」
梶原の眼にもしっかり止まっていたようだが、不審にも怪訝にも感じない様子だ。
こともあろうに、名賀といえば容保に付添って上洛して来た側室の名だ。
それが自由気ままに出歩いているなんて。側室も側室だが、梶原も梶原だ。仮にも大目付なら、もう少し何か違う反応を見せるべきなのでは、という気がしてならない。
広沢は行き過ぎた人影を目で追うのをやめ、次いでその怪訝な眼差しを隣の梶原に注ぐ。
「名賀様は供の者をお連れなのでしょうな、梶原殿」
「いいや、あの方の行動は常に謎でな! 供を付けようにも毎度うまうまと逃げ果せてしまわれる。我が藩には、天晴な女性もいたものよ!」
はっはっは! と、梶原は実に愉快そうに笑っている。
だが、仮にも側室が単独で出歩こうなど、とても看過されて良いものではない。
京に潜伏する不逞浪士に出くわさない保障はどこにもないというのに。
「何が天晴なものか! 貴殿はもう少し賢い男と思っていたが、側室一人お止めすることも出来ぬとは、見損なったぞ!」
「そうは申すが、これがなかなかどうして名賀様も女傑なのだ。私の部下では追尾を煙に巻かれてしまうのでな」
「ハァ!? なんと不甲斐ない! 梶原殿の部下は阿呆ばかりか! 側室一人お止め出来ぬとは……!」
広沢も思わず本気になって怒りかける。
すると梶原はあっさりと笑うのをやめ、途端にきりりと頬を引き締めた。
「ならば、お主が手を打てばよかろう。今のお主が持つ、その役に立たぬ手駒を投じて名賀様をお止め申し上げてみてはどうだ?」
「それはまさかあの高宮を使え、ということですかな?」
「ははは、最早言わずもがな。伊織殿もあれで新選組隊士だ。役に立たぬから使わぬというよりも、お主が使ってやらないから役に立たぬだけではないのか?」
「ぐ……っ」
思わぬ梶原の言葉に、広沢が出しかけた憤りも不発に終わる。
梶原も飄々としているようで、結構鋭く図星を突いてくるものだ。
「広沢殿、名賀様は一筋縄ではゆかぬ。心なされよ?」
いやに挑戦的な眼差しと共にそう言い残すと、梶原は袴の裾をぴしぴし蹴り飛ばしながら、足早に廊下の先へ去って行った。
***
広沢の居室に呼ばれ、伊織は身支度を済ませるとすぐに広沢を訪ねた。
呼びつけられてやって来たものの、肝心の広沢の姿はない。
仕方なく勝手に立ち入ってその帰りを待っているのだが、もう随分と待たされている。
正座した足が痺れ始めているのがその証拠だ。
加えて、来た時には曙光の中で囀っていた雀の声も、今はもう聞こえなくなっていた。




