第二十二章 理非曲直(2)
「私には、そもそも志というものがないのかもしれません。私の故郷は会津で、会津を守りたいと思う。でも、私個人が佐幕や尊王、攘夷とか開国とか、そんな大それた思想を持っているわけじゃないんです」
実際、会津出身で新選組に所属しているというだけで、自分が漠然と佐幕派であるような気がしていた。いや、事実、佐幕派であるのかもしれないが、その思想の何たるかを理解しているわけではないように思う。
佐幕に限らず、勤皇或いは尊皇と言われる思想も、攘夷思想についても、これまで別段掘り下げて考えたことなどないに等しい。
「――なんて、こんなことを言うと、学がないのを暴露しているようで恥ずかしいのですが」
伊織が決まり悪く笑うと、山南は意表を突かれたように目を丸くする。
それからややあって、山南は盛大に吹き出した。
「……ぶっ! ぷぁっはははは!」
「!? やっ山南さん、何もそんなに笑うことないじゃないですか」
吹き出されるほどおかしなことを言ったつもりはないのだが、山南のように学識ある人物から見れば、志すものがないという発言は些か滑稽に聞こえたのかも知れない。
そう考えると、馬鹿正直に告白してしまったことが尚更恥ずかしく感じた。
「もう、山南さん酷いですよ。いくら自覚してることでも、そんなに笑われちゃあ、さすがに私も参ってしまいます」
「ははは、いやいや違うんだ。笑ったりしてすまないね」
一頻り笑ったあとで、山南は少々むくれた伊織に詫びる。
「どうやら君は誤解しているようだ。いや、買い被っていると言ったほうがいいかな?」
「買い被る?」
一体何を、と、伊織は小首を傾げた。
「思想や志とは、君が思うほど難しいものではないんだよ。ただ、こればかりは十人十色で、一筋縄ではいかないものだから、周りが堅苦しいことを論じているように見えるのかも知れないねぇ」
ふふ、と小さく笑い、山南は僅かに身を乗り出して伊織に言う。
「考え方というのは、人それぞれだろう? たとえ思想や志が同じだとしても、それは根幹で繋がっているというだけの話なんだ。人の数だけ、思想も志も枝分かれする」
だから、厳密に言えば真実全き「同志」というものは、この世にいようはずもない。
最後にやや語気を弱めて告げた山南の表情が、伊織の目には寂しげに映った。
「山南さん……」
思わず山南の表情につられて眉根を下げた伊織だったが、当の山南はといえば、次の瞬間には既にいつもの穏やかな笑顔に戻っていた。
「志とは、人が抱く単なる望みに過ぎないのだと思う。良く言えば夢、悪く言えば欲――。叶え方や満たし方は人によって千差万別で、時に清廉であり、またある時には非道にもなる。とても我儘な正義なんだろう」
我儘な正義。
伊織ははっと顔を上げ、瞠目した。
眼前の山南が、伊織の顔色の変化に気付いたのか、ゆったりと鷹揚な所作ながらも、怪訝そうに伊織の顔を覗き込む。
「? どうかしたかい?」
「いえ。何だか、正にそうなのかもしれない、と思って――」
相反する言葉の組み合わせに違いなかったが、それは言い得て妙なものだった。
いや、もしかすると「正義」というのは元々我儘で独り善がりなものなのかもしれない。
優面を厳しく顰めた土方の顔が脳裏をよぎる。
血の隊規で以て同志を纏め、組織を維持せんがためには手段を選ばず。
苛烈で我儘で、それでも尚、一途が故に清廉な彼の正義がそこにある。
無論、だからといって全てに納得出来るわけではなかったが。
それでもほんの少し、伊織は溜飲の下がる気がした。
「高宮君、君は幸い冷静な人間のようだ。君ぐらいの年の子にしては珍しい。そういう君だから言うが、私は君のしたいようにするのが最良の選択だと思う」
それに、と山南は続ける。
「あまり固定の思想や観念に囚われないほうがよろしい。如何に優れた思想も、度が過ぎればいつか虚妄の執念となり、君の身を滅ぼしかねない」
これでは何の参考にもならないかな、と山南は苦笑したが、伊織は咄嗟にかぶりを振った。
寧ろ、胸に閊えた蟠りを溶かす糸口を見つけた。
そう口を開きかけた矢先、やや聞こえよがしなほどに大仰な吐息がすぐ傍に聞こえた。
座敷に上がった時の笑顔をすっかり曇らせた、明里だ。
「やっぱり、男はんの話は難しおすなぁ。山南はんに呼んでもろても、うちにはさっぱりついていかれへん」




