第十八章 幻詭猥雑(2)
「一日も、いや一刻も早くお前が女子に戻り、私の許へ来ることを切願しておると申すに……っ!!」
「ははぁ、要するに先程のお話は、単にカマをかけただけですか。姑息なことを」
何となく、どうせそんなことだろうと思ってはいたが、最早呆れ果てて罵倒する言葉も萎みがちになる。
相変わらず凄まじい眼で見つめてくる佐々木を払い除け、伊織は投げやりな吐息をすると、再び文机に向かった。
「用が済んだなら早くどっか行って下さいね。きっちり二刻やらないと、まーた広沢さんにどやされちゃうんですから」
「ぬっ、しかしお前、仮名の写しなぞよりも、やはり実用性のある文の遣り取りで覚える方が……」
「だから佐々木さんが相手じゃ嫌だって言ってるじゃないですか」
「そ、そんなきっぱりと私を傷付けるでないわ!!」
むっとした顔の佐々木を、伊織は横目で睨みつけた。
すると佐々木はしゅんと肩を窄めて項垂れ、しおしおと力なく溜息をこぼす。
「分かった。そうまで申すのならば、文の相手に私の知人ではどうだろうか。奴はなかなか書に通じているぞ。奴を見本にすれば、すぐにお前も上達できよう」
と、口ではそう言いつつも、その表情は明らかにむくれている。
佐々木としては、伊織に助力したい一心で言ってくれているのだろう。
常日頃、何かと迷惑を蒙ってはいるが、佐々木は時々本当に有り難い助けとなってくれることもまた事実だ。
「……でも、佐々木さんの知り合いじゃあ、何だかなぁ」
世の中には「類は友を呼ぶ」という言葉も存在する。
その知人とやらがまともな人であれば申し分ないのだが、万が一、佐々木と類似した人物だった場合を考えると、酷く不安にもなる。
(知り合いって、蒔田さんかな?)
佐々木と同じく見廻組であり、実は備中浅尾藩の殿様でもある蒔田広孝ならば、伊織の書の練習に付き合ってくれそうではある。それに何より、少なくとも佐々木よりは人間がまともである。ついでに殿様ということで信頼も置ける存在だ。
「言っておくが、蒔田ではないぞ?」
「は? 違うんですか? だったら他に誰が……」
佐々木の知人といえば、即座に念頭に浮かぶのが蒔田だが、それ以外といえば土方や近藤など、伊織にとっても身近な存在が思いつくのみ。
首を捻ると同時に、思っていたよりも佐々木について何も知らないのだな、と伊織は思う。
「うむ。山岡鉄太郎、という男がいるのだが……。近藤や土方も奴のことは知っているはずだぞ。何しろ浪士組として江戸から京に上る時に、浪士組の取締りを務めた男だからな」
「はぁ、山岡鉄太郎……」
名を繰り返してみて、伊織はふと脳裏に閃くものを見た。
「! そ、それもしかして! 山岡鉄舟!?」
聞き慣れたのは、鉄舟という号のほうだが、通称は確か、鉄太郎といったはずである。
書と剣、そして禅に秀でた高名な人物であり、いずれ世が戊辰戦争に突入する頃、江戸城無血開城実現に尽力し、明治期には侍従として明治天皇に仕える男だ。
佐々木の言うように、彼は文久三年の浪士組結成にも深く関わっており、近藤や土方らの試衛館道場の人々もその名を知らぬはずはない。
突然に大声を上げた伊織に、佐々木も流石に意表を突かれたのか、僅かに顎を引く。
だが、伊織にしてみればこれまた幕末の偉人との新たな出会いの予感なのである。これで興奮せずにいられるはずもなかった。
「なぁんだ、山岡鉄舟なら書の達人じゃないですか! そういうことなら喜んで文通しますよ!」
先刻までとは打って変わって満面笑顔と転じた伊織は、寧ろ自ら佐々木の手を取って目を輝かせた。
「よ、喜んで、だと!? おまえ、山岡を知っているような口振りだが……」
腑に落ちないといった顔で問いかける佐々木に、伊織は二つ返事で是と返す。
「ああ、勿論知ってますよ。会ったことはないですけどね」
「ふぅむ……土方か近藤からでも話を聞いたのか?」
顎を擦って首を捻る佐々木の態度から、伊織も漸く怪訝に思われているらしいことを悟る。
伊織が元々この時代の人間だと思っている佐々木にしてみれば、そう考え付くのが当然のことであろう。
伊織が今よりはるか百年以上も先の未来からこの時代へと迷い込んだ事実は、あの土方や近藤でさえ、未だ理解しきれていない様子でもある。
佐々木にこの事実を打ち明けたとて、それは到底理解を得るには至らないだろう。
それ以前に、そんな身の上話を打ち明けるような相手でもない。
伊織は咄嗟に文机に向き直り、手早く筆を構えた。
「じゃ、あの、早速お手紙書きますから。後は佐々木さん、宜しくお願いしますね!」




