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新選組秘録―水鏡―  作者: 紫乃森統子
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第十七章 出処進退(5)



「じゃ、広沢殿。後はお任せしますぞー。好きに扱き使ってやってくれて良いので、よろしくお頼み申します。伊織殿も何かあればいつでも私の許を訪ねて来るが良い」

 そう言い残すと、梶原はピヨ丸を抱えてさっさと引き返して行ってしまった。

 黒谷、金戒光明寺の本堂へと続く緩やかに傾斜した坂道を登っていく背中を見送る、伊織と広沢。

「じゃあ、宜しくお願いします。広沢さん」

 ちらりと傍らの広沢を窺い、伊織は軽く頭を下げた。

 この男の下で仕事を与えられる事は、不本意だ。そして先行きが実に不安でもある。

(どうせなら、梶原さんの部下にしてくれれば良かったのに……)

 現実は、そうそう思うとおりには運んでいってくれないらしい。

 そして何より。梶原にああ言われては、その采配を拒む気になどなれなかった。

 暫し沈思黙考していた広沢も、やがて伊織を見返して、

「仕方あるまいな。梶原殿に免じて私の下で使ってやろう」

 と、半ば諦めた顔で言った。

 伊織よりも一、二寸高い程度の目線から物を言う広沢は、堅い面持ちを崩さぬまま、その手振りでついて来るようにと告げた。


     ***


 文机に、どさりと積まれた書類が二山。

「手始めに、これらの書付をすべて清書して貰いたい。良いか、今日中にだ。分かったらさっさと取り掛かるのだな。遅れは許さんぞ」

 何かの文書であることだけは見て取れるものの、その内容を読み解くのは伊織にとっては至難の業。

 初っ端からこんな面倒な仕事を任されるとは夢にも思っていなかった。

 与えられる仕事といえば、どうせ雑用やお茶酌み程度だろうと高を括っていたのである。

 そしてなるほど、こういう重要そうな書類も、すべてが手書きなのだ。

 今は江戸時代。

 現代のように複写機などといった文明の利器が普及するのは、まだまだ先の未来なのである。

「こ、これ……全部手書きで私が清書を……? え? 本気ですか……」

「当然であろう。私はこの後用があるので外すが、何かあれば他の者に尋ねるが良い」

 他の者、と言われて室内を見渡してみれば、二、三人の藩士が同じように文机に向かっている姿が目に入る。

 だが、そんな彼らの全員が、伊織の視線から逃げるように一斉に明後日の方向へと顔を背けてしまった。

(皆さん明らかに助ける気がなさそうだ……!!)

 誰も彼もが同様に、各々の文机に書類を抱えている様子だが、その量は伊織の半分にも満たない。

「はっはっは。梶原殿の言葉通り、使えるだけ使わせてもらおうぞ。梶原殿ご推薦の人材ともなれば、これしきの事は朝飯前……そうであろう?」

「ええぇ――……」

 にんまりと笑いかけられ、伊織は正座のまま膝で後ずさる。

 文机を占領する膨大な量の書付と、清書用のまっさらな料紙、そしてその二つの山の間に埋もれるように置かれた硯と筆。

 山積した書付のその文面は、清書の必要など無かろうかと思うほどに流暢な筆跡で認められている。

 そして、伊織はある結論に達した。

(こんな字は書けん……!!)

 量の多少よりもまず、問題の筆頭はそこである。

 この時代に来てから今に至るまで、字の読み書きなどは然程必要に迫られることはなかった。

 更に、なまじ現代語に通じる字面の為に、直感的にある程度の単語が読めていた事が首を絞める結果となったに違いなかった。

 伊織の目から見れば、この時代の書物は古文書に匹敵する難解さなのだ。

 単語を辛うじて読めはしても、それが流れるような草書で書かれた文章になると、途端に読めなくなる。

 清書を頼まれた書付もまた、崩し書きも甚だしいものだった。

「かッ……」

「うん? 何だ?」

「……書けませぬ、広沢様……」

 机上に視線を落としたまま、伊織は消え入りそうな声で呟いた。

 すると、正面の広沢の動きもぴたりと止まる。

「……」

「……」

「何だと? ハァ? 馬鹿にしとるのかお主は? 中でも最も容易い仕事を与えてやったと申すに、お主はそれすらも出来ぬと言うのか」

 びしびしと突き刺すような広沢の視線に抑圧され、伊織は何となくその目を見返す事を躊躇った。


 

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