第十七章 出処進退(3)
自害するというのに、それでも伊織を睨んだあの目は、強靭なまでの光を放っていたのだ。
同じ死を目前にした二人の、この差は何か。
(信念――)
答えは簡単に導き出されてしまう。
その信念が、今の伊織自身には著しく欠如しているように思えて仕方がなかった。
土方と伊織の間にある溝も、信念の強さの差だけ深いのだろう。
今こうして土方から離れる事が、単なるその場凌ぎでしかないとは分かっている。会津に身を寄せたからと言って、その溝が埋まるでもなく、状況が好転するとも思ってはいなかった。
そればかりか、新選組での生活よりも、黒谷でのそれのほうが遥かに難儀するだろう。何かがあるとしてもきっと、慣れぬ場所での戸惑いや、勝手の分からぬ不便さに翻弄されて、土方との間にあった違和感などすっかり忘れてしまうだけ。
幕末へ迷い込み、新選組に起居するようになってこれまで、毎日に追われて現代を懐かしむ暇もなかった。それと同じ事だ。
会津藩本陣の中に、伊織の事情を知る者は一人としていない。
(ここでは、女子だからって庇ってくれる人はいないんだよね……)
一歩でも足を踏み入れれば、その瞬間から当分の間は、すべてを自らの裁量で対処していかねばならないのだ。
そんな一抹の不安を抱えながら、やがて伊織は大きく息を吸い込んだ。
ここまで来たなら、もう道は前にしかない。
そう意気込んで前へ踏み出した刹那――。
「ピッ……ピゴォッ!!」
「ん?」
ぐにっ、と妙な感覚を覚え、伊織は反射的に足を引き戻した。
何となく嫌な予感を覚えつつ、恐る恐る足元に目を向ける。
「!!? ピッ……ピゴ丸様ァアアアアア!!?」
「ピビィ……ッ!」
苦しみ悶えるほんの小さなその御方は、紛れもなく容保の愛鳥――ピヨ丸様であった。
驚愕のあまりにうっかり間違った名を呼んでしまったが、そこに蹲るのはまさしくピヨ丸君。
「あっ、あわわっ! どどどうしてピヨ丸様がこんなところに……!?」
咄嗟に跪いた伊織が手を差し伸べたと同時に、辺り一帯にどす黒い声が轟いた。
「にしゃァアアアアアア!!! ピヨ丸様を…ッ、よくもピヨ丸様をぉおおおおう!!」
「! ヒッ、すいません!」
あろうことか、踏みつけた現場を人に目撃されてしまったらしい。
物凄い形相で突進してくる会津藩士らしき人物が一人。その顔はさながら般若のようである。
「見たぞ! そのほう、殿の大切なるピヨ丸様を足蹴にしおったな!?」
「だ、だだだってッ……まさか、こったらところにピヨ丸様がおられっとはよ――!」
がしっと胸ぐらを締め上げられ、伊織の口からもうっかり久々に故郷の訛りがチラリと飛び出す。
だが、踏んだと言っても咄嗟に足を引き戻したので、然程に強く踏みつけてしまったわけではない。
大きな怪我もないようだし、羽毛の一筋も毟れてしまった様子はない。
「問答無用ッ。殿の愛鳥に無礼を働いた事実に変わりはなかろう。しかと詮議をさせて頂こうではないか? ケケケッ」
「! ケケケ!?」
怒った顔が般若な上に、笑い方まで気味の悪い男だ。見たところはそれほど歳もいっていないようだが、面差しにはそこはかとなく昏い翳りが差している。
喩えるならば、そう――現代にいた頃は街中でもちらほらと目にしたことのある、社会生活に疲れきった顔である。
(……ここにもストレス社会がッ!)
会津の内情、思い遣って余りある。
いや、それよりも、この男の顔から窺える会津藩の現状には、なかなかに荒んだ面があるように思えてしまう。
様々な不安が胸を去来するが、胸ぐらを掴まれたままの状態から逃れようと、伊織はこの場をやり過ごそうと考える。
「あー、あのう。大目付役の梶原平馬殿にお取次ぎ願いたく……」
「何をぅ? この私も大目付役だが? この件、私では不足とでも申すつもりか、この青二才めが」
「いやいやいやいやッ。そうではなく!」
額にみるみる青筋の浮き出る般若殿もまた、梶原と同様に大目付の職に就いているという。が、その事実は一層男の神経を逆撫でしてしまったようだ。
(拙い事になったぁ……)
来て早々、先の思い遣られる展開だ。
伊織が内心で吐息した時、今度はこの剣呑な空気を緩慢に遮る者があった。




