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新選組秘録―水鏡―  作者: 紫乃森統子
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第十六章 水天彷彿(6)



「るせー。腹が減るか厠に行きたくなりゃ自然と動くだろうさ。ちょうど今夜にゃ葛山も切腹だ。部屋にいりゃあ、奴の最期も見ずに済む。あいつにゃ都合良いんじゃねえか?」

 大体、会津会津とよく口にしているが、伊織が会津の何某を親に持つのかを聞いた試しもない。

 加えて、屯所にやって来たその日に自ら、百ン十年もの未来からやって来たと宣言するような奴なのだ。

「今は自ら会津出身と言ってりゃ誰も彼も信用してくれるように思ってんだろうが、いざ突き詰めて出自を糺されたら、何て答えるつもりなんだ、あの馬鹿は……清水寺の舞台から生れ落ちてきました、とでも言いやがんのか? ああ?」

 苛々と徐々に歩幅の広がっていく土方に、沖田はいそいそとついていく。

「あー、そういえばそうですねぇ。高宮さんて、武家の出なのかな? 農民……には見えなかったし、町方って感じでもなかったですね」

 清水寺で奇妙な格好の女子を拾った、その日を思い起こしつつ、沖田は言う。

 身に纏うのは異人の着る物に酷似していたし、落下のためにあちこち傷は出来ていたものの、放浪で疲弊した様子もなかった。

「……」

「……」

「で、どうするつもりなんです?」

「どうするってなぁ、何のことだ」

 ふと真顔で尋ねた沖田の視線に、土方は青筋を浮かせて睥睨を返す。

 非常に苛立った、凄むような目である。

 送り出すのを渋る理由が何であれ、兎に角面白くない事は、誰の目にも一目瞭然だった。

 伊織にとっては唯一掛け替えの無い故郷であっても、会津側から見れば出自の明白でない伊織は不審人物であるに違いない。

 自称、会津藩出身であるに過ぎないのだ。

 大人しく国許へ帰って細々暮らすなら話は別だが、本陣に出向くとなれば身元を明らかにしないわけにはゆくまい。

「ま、それに自ら気付きゃ良いが……、でなけりゃあ、いざ黒谷で身元を洗われた時に故郷を失うことにならぁな」

「ほら、それ可哀想じゃないですか! やっぱり必死で止めましょうよ~。会津に行かせちゃったら、もう戻って来ないかもしれないですよ?」

「総司はおめぇ、……アレに懸想でもしてんのか。随分乳臭ェのがお好みだな」

 何だかんだと伊織の肩を持つ沖田に、ズバリと質問を浴びせてみるが、当の沖田はきょとんとした顔になる。

 思い切り疑問符で満ちた表情に、土方は先の質問を即座に取り下げた。

 どうやら乳臭いのは沖田も同様らしかった。

「どうしても、って言うなら一月や二月、黒谷に預けてみるのも仕方ねえ。それでちったぁ現実を知って来るだろ」

 やれやれ、と凝った肩を回しながら、土方は言う。

 何か言い返そうとする沖田を尻目に、土方はそのまま廊下を歩き出した。


     ***


(……か、厠が私を呼んでいる!!!)

 その頃、伊織は引っ込みのつかなくなった我が身と必死に格闘していた。

 土方は愚か、沖田までもが退出して行ってしまった今、勝手にこの場を離れれば即ちこの勝負、伊織の敗北となる。

 すぐに土方か沖田のどちらかが戻って来るだろうと高を括っていたのだが、その予想は見事に外れてしまったらしい。

(ど、どうすれば……!)

 どう足掻こうにも、人間の体とは無情なものである。

 一つ二つと脂汗が滲もうかという、その時。

 僅かに開いていた襖の向こう――廊下の板張りに、すっと黒い影が差した。

「ひ、土方さん! やっと戻って来たんですね!? ちょ、すいません、この勝負、厠休憩入れて良いですかっ!!」

 咄嗟にそれが土方の影と思い込み、伊織は賺さず叫んだ。

 が、しかし。

「ぬうっ?? 厠なら私もついて行くぞ」

「!!!!?」

 襖をぐいと押し開けて覗いたのは、土方ではなかった。

 今時分、一体何用あっての来訪なのか、見廻組の佐々木だ。

(……こっ、この私が佐々木さんの気配を嗅ぎ取れなかったなんて――!)

 いつもならばこの大変人且つ大迷惑な佐々木が近付けば、自ずと寒気を感じるはずである。

 それなのに。

「さ、佐々木さんでしたかっ! これはこれは……とんだご無礼を。土方さんならここにはいませんよ……」


 

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