第十六章 水天彷彿(4)
(何故舌打ち!?)
と、思ってみても、実際には何となく聞けない。
斎藤はすぐに指圧体勢の腕をおろすと、さっさと御堂の階を降りた。
「あの、斎藤さん」
「何だ」
斎藤の背を見せられ、つい呼び止めてしまった。
斎藤も声をかけられなければ、そのまま去って行ってしまうつもりだったのだろう。下駄を引っ掛けたところで立ち返り、伊織を見据えた。
「あのう……」
「……何だ」
呼び止めたまでは良かったが、何故呼び止めてしまったのかも分からずに、伊織は僅かに戸惑った。
「あ、あのですね。さっき、……私、ずっと一人、でしたか?」
咄嗟に出た質問だったが、我ながら的を射たなと思った。
すると、やはり斎藤は一層に眉宇を顰める。
「一人だった……が、しかし。誰かと話をしているかのような、見事な独り言だったと思う」
やはり。
時尾と話をしていたところも、一部始終聞いていたらしい。
だが、問題の時尾の声も姿も、斎藤にはまるで見えていなかったのだろう。
そうでなければ、斎藤からこんな回答が返るはずはない。
「そう、ですか。……呼び止めてすみませんでした」
「葛山のことで何か副長と反りが合わん様子だが、反感を持つくらいなら、大人しく会津へ引き揚げることだな。幸い、折り良く誘いも頂けただろう」
土方へ異を唱える者は、要らない、ということなのだろうか。
斎藤の言う事は単純明快で、真意を理解するに苦しむ事はない。
だが、同時に溜飲の下がらない思いも蟠った。
「斎藤さんは、土方さんの判断はすべて正しいと思うんですか?」
「そもそも、正しさだけで纏まってくれる集団ではないだろう。人によって、正しいと思う事はまちまちだ。皆が正しさだけを追い求めればどうなるか、容易に想像がつく。少々正道から外れていても、それを正当化しなけりゃ今の形を保つ事が出来ないんだろう。その役を副長が買って出た。それだけのことだ」
「……」
「無軌道な者たちを束ねるには、見せしめも必要だ。葛山が犠牲になることで、建白書に名を連ねた連中は助かり、それ以外の者は処断を恐れて異を唱えなくなる。それが本来の新選組じゃないのか? おまえがどうしても嫌だというなら、おまえは監察としても副長の小姓としても失格だ。佐々木さんの妾になるか、会津の国許に引っ込んだ方が良いだろう」
自ら進んで嫌われ役を買って出ている。
土方にそんな節がないわけでは、ない。
いくら烏合の衆を纏め上げるためとはいえ、やり過ぎれば一層に団結を欠き、本末転倒になりかねないではないか。
事実、よくよく考えてみれば歴史に知る新選組は、敵対の浪士を取り締まるのと同等の数の――いや、或いはそれ以上――、同志を粛清している。
裏切りに鉄槌を下す場合もあるだろう。無論、それ自体は否定はしない。
だが、今回のように、明らかにやり過ぎだと感じることが今後も頻々とあるならば、土方の傍に居続けることは難しい気がするのだ。
胸に去来する物が複雑に過ぎて、伊織は結局、斎藤に言い返すことは出来なかった。
***
「私は反対ですからねっ!」
盛大な膨れっ面で断固反対を唱えたのは、沖田だった。
「だいたい高宮さんも何を言い出すんですか! 池田屋の後日、これからもずっと宜しくって言ったのは高宮さんですよ!? どうして今更屯所を出て行こうだなんて……!」
「すみません、沖田さん」
「すみませんじゃないでしょう!? 土方さんも何か言ってあげてくださいよ!」
駄々を捏ねる沖田とは対照的に、土方は無言だった。
いつもの腕組みに瞑目、眉間にはたっぷりと皺を寄せている。
「局長が江戸からお戻りになる頃までには、隊に戻ります。勝手を申しまして、恐縮です」
土方には丁重に話し、そうして伊織は憤慨する沖田にも申し訳なく笑みを向ける。
そして、土方が漸く口を開いた。
「納得がいかねぇな」
睥睨と共に突き返された答えは、酷く苛立ちを感じさせるものだった。
これほど険阻な面持ちの土方と見合うのは、いつ振りだろうか。
だが、沖田はここぞとばかりに土方に寄り添い、揃って文句を並べ立てる。




