第十四章 唇歯輔車(9)
「……。なんだその目は。俺に何を望んでいる」
「いえ、同僚として何か私を援護する言葉はないのかな、と」
何かしら伊織の辞退を後見する一言があっても良さそうだ、と斎藤を見たのだが、どうも期待出来そうにはない。
「甘ったれるな。自分で断れ。俺はおまえがどうしようと知ったことではないからな」
「冷たいなぁ、斎藤さ……」
「おっ! そうか!」
苦笑しようとしたその瞬間。
梶原が突如閃きの声を上げた。
ぱしり、と扇を掌に打ち、伊織めがけてひょいひょいと扇子を振る。
「な……今度は何でしょうか」
「ではお主、その度胸を見込んで、会津への報告役を担わぬか?」
さも良いことを思いついた、と言わんばかりの破顔様である。
「ほ、ほうこくやく……?」
「まあ、そうキョトンとするな。要は、この度のような事件がそうそうあってはこちらも対処に困るのでな。新選組の内部の状況を定期的に我々に報告せよというのだ」
そこまで聞いて、伊織は思わず顰蹙した。
それは要するに、会津から新選組への密偵役ということではないのか。
確かに今度のことでは会津に迷惑を掛けもしたが、果たしてそこまでする必要があるのだろうか。
隊には無論、機密というものも存在するであろうし、そしてそれはこれからも増えるものだ。
如何に上役の会津へ報せるのみと言っても、隊の規律に厳しい土方が良い顔をするとは思えない。
「梶原様、それは……」
土方の仏頂面が念頭に浮かび、伊織は返す返す、固辞しようとした。
が、それよりも早く、梶原が再度開口する。
「密偵がもう一人いれば、斎藤殿、そちも何かと動き易かろう?」
「いや、こいつは何かと足手纏いになりそうですが。どうしてもこいつを、と仰るなら、私は承服せざるを得ません」
ほくほくと斎藤に話を振った梶原に、あくまでも沈着に返す斎藤。
「……は?」
暫時、伊織は考えた。
密偵がもう一人いれば、ということは、既に一人、会津藩の密偵がいるということになる。
座していてもまだ高い斎藤の視線をちらりと仰ぎ、伊織は急速に斎藤に関する記憶の糸を縒り合わせていく。
「と、いうかだな、知ってしまった以上は引き受けて貰わねばなぁ。はっはっは」
「梶原様もお人が悪い」
「何を言う、それは互いだろう?」
呵呵と笑う梶原を尻目に、伊織は思わず斎藤に詰め寄った。
「やっぱり、斎藤さんは会津藩の密偵役だったんですね!?」
そうかもしれない、というだけだった曖昧な記憶が、今、確信に至った。
するとなると、今回斎藤が建白書に連名していたことにも、合点がいく。
近藤糾弾の仲間入りする事で、その動きを具に見張っていたと考えれば、何も不思議はない。
そしてそれを報せるために、こうして黒谷へと来たのだ。
「やっぱり、というのは何だ。おまえ、以前から俺が間者だと踏んでいたような口振りだな?」
「いえ、あの、何となく。それは……」
「まあいい。尾形と言い、おまえと言い、うちの監察方は至極優秀なようだ」
顔色一つ変えることはなく、だが、斎藤の口調はやはりどこか面白くなさそうである。
一体、どういうつもりで黒谷までの供をさせたのか。
もしかすると、斎藤こそ初めから隠密役に引き入れるつもりで誘ったのではあるまいか。
これほどに何を考えているか分からない男も、なかなかいない。
ますます怪訝な視線を向けるものの、斎藤は僅かも動じる素振りを見せない。
常ながら、小憎らしいほどの平静さだ。
「まあ、そういうわけだ。今後とも宜しく頼もう。そのうち藩へ戻る気になれば申し出るが良い」
そう言って梶原は、にっかりと笑ったが、伊織と斎藤の間の妙に訝しい空気は暫しの間続くことになった。
【第十四章 唇歯輔車】終
第十五章へ続く




