第二十三話:水底の店
暗闇の中、橘宗一は地下室へと続く落とし戸の前に仁王立ちになっていた。
その手には武器として、あるいは己の恐怖心を支えるための杖として、鉄製の火掻き棒が強く握りしめられている。
彼の背後では静まり返った店が、古美術品たちの立てる不気味な影で満たされている。
そして彼の足元からは、今もなお溺れゆく少女の最後の喘ぎのような、くぐもった声が絶え間なく響き続けていた。
断絶。
電気も電話も、外界へと繋がる全ての生命線は沈黙している。
この店はもはや金沢という都市にありながら、その地図から切り取られてしまった異界の孤島だった。
警察も水道業者も、誰も来ない。助けは来ない。
橘はごくりと乾いた喉を鳴らした。
恐怖はすでに彼の精神の許容量を遥かに超えていた。
しかし人間は恐怖の極致において、時に狂気ともいえる行動力を発揮することがある。
逃げられないのなら。隠れていてもいずれこの水が、この声が自分を呑み込みに来るのなら。
――行くしかない。
この目で確かめるしかない。
このあり得ない現象のその中心に、一体何があるのかを。
彼は意を決した。火掻き棒の先端を、水で膨れて固く閉ざされた落とし戸の隙間にねじ込む。
そして全身の体重をかけて、それをこじ開けた。
「ごぼり」という水気の多い鈍い音と共に、扉が開く。
途端に濃縮された淀んだ空気の塊が、地下から這い出してきた。
それは彼の店の床に染み付いていた、あの川底の泥のような匂い。
そしてその奥に、さらに濃厚な生命が腐敗していく甘く生臭い匂いが混じっていた。
橘は咳き込みながらも、懐中電灯を手にその暗い穴の底を照らし出した。
光の先にあったのは木製の階段の最上段。
そしてその数段下から、まるで黒い鏡を張り詰めたかのように静まり返った水面が広がっていた。
地下室は完全に水浸しになっていた。
「……おふみ、ちゃん」
橘はほとんど無意識に、あの記録にあった少女の名前を呟いていた。
地下から聞こえてくる溺れるような声は、彼が扉を開けたことでさらに明瞭になっていた。
それは助けを求める声であり、同時に彼をその水底へと誘う呪いの呼び声でもあった。
彼は懐中電灯を口にくわえ、火掻き棒を手にその闇へと続く階段に足をかけた。
一段、また一段とゆっくりと降りていく。
湿って滑りやすくなった木製の階段が、彼の体重を受けて「ぎしり」と不吉な音を立てる。
やがて彼の靴先が、冷たい水面に触れた。
氷水に足を突っ込んだかのような鋭い冷たさが、ズボンの裾から彼の皮膚を直接刺した。
それでも彼は止まらなかった。
水は彼の足首を、ふくらはぎを、そして膝を、冷たい手で撫でるように満たしていく。
階段の最後の段まで降りきった。彼は今、腰のあたりまでその正体不明の冷たい水の中に浸かっていた。
彼は口から懐中電灯を取り、その震える光で目の前の光景を照らし出した。
そこにあったのは彼の予想通りの、そして最悪の光景だった。
彼が商品として、あるいはただのガラクタとして地下室に保管していた無数の品々。
桐の木箱、九谷焼の壺、輪島塗の膳。
それらが水面に、あるいは水中に、無残な姿で漂っていた。
「……ちくしょうが」
その光景は商人としての彼の心をわずかに苛んだ。
だが、今の彼にとって金銭的な損失など、もはやどうでもいいことだった。
地下室の溺れるような声は、彼が水の中に入った瞬間からぴたりと止んでいた。
静かだ。
聞こえるのは彼が水の中を進むたびに立てる、「ちゃぷん」という鈍い水音だけ。
彼は懐中電灯の光を、ゆっくりと水面へと滑らせていく。
その光の輪が、水面に浮かぶ木箱のその隣に、何か白っぽいものが漂っているのを捉えた。
なんだ、あれは。
布か何かか。
彼はその白い塊へと光を向けたまま、一歩近づいた。
そして、それが何であるかを認識した瞬間。
彼の喉の奥から「ひっ」という、引き攣った空気の漏れる音がした。
――顔。
水面に仰向けに浮かぶ、男の顔。
それは水にふやけ、青白く膨れ上がった死人の顔だった。
その見覚えのある月代の剃り跡。武士だ。
橘の脳裏に、あの最初の巻物の記述が焼き付いた鉄印のように浮かび上がった。
【竹内光忠水難死顕現記録】。
濁流に飲まれ無残な姿で発見されたという、加賀藩の武士。
「……あ……あ……」
橘は腰が砕け、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
懐中電灯を持つ手が激しく震える。
その光が水面を狂ったように揺れ動いた。
そして彼は、見てしまった。
光が揺れるたびに、水の中から次々とそれらが浮かび上がってくるのを。
まるで水底から、ゆっくりと水草が浮上してくるかのように。
一人、また一人と、死者たちがその姿を現し始めたのだ。
懐中電灯の光が、小さな子供の姿を捉える。着物が水の中で花のように開いている。
それは彼が昨夜、記録で読んだ村上藩の少女、「おふみ」。
その虚ろな目は水中の闇を見つめている。
光が別の場所を照らす。
そこにはまた別の、見知らぬ死者たちが静かに漂っていた。
男、女、老人、子供。 彼がまだ読んでいない、あの巻物の中に綴られているはずの犠牲者たち。
そうだ。
ここは彼の店の地下室などではない。
ここは、あの『秘匿葬送記録』という呪われた物語の水底なのだ。
彼は水で満たされた巨大な墓標の中に立っていた。
そして、その墓標の中で死者たちは静かに眠っていた。
そう思った、その瞬間だった。
橘が恐怖のあまり後ずさりしようとして、水面を大きく波立たせてしまった。
その波紋が、きっかけだった。
水面に浮かんでいた竹内光忠の、その虚ろだったはずの瞳が。
ゆっくりと、「ぎ」と音を立てるかのように動き。
そして、まっすぐに橘の顔を捉えた。
一人ではない。
その動きに呼応するかのように。
水面に漂う全ての死者たちが、水草のようにその身体をゆっくりと翻し。
その白く濁った虚ろな瞳で。
一斉に、橘のことだけを見上げていた。
声はない。
動きもない。
ただ、その無数の死人の視線だけが、水底から一本の冷たい槍のように、橘の魂を貫いていた。
それは憎悪でも怨嗟でもない。 もっと静かで、もっと冷たい感情。
――お前も、こちら側だ。
その無数の瞳が、そう語りかけているかのようだった。
お前もやがて我々のように、この水底を漂うのだ、と。
橘の口から、もはや悲鳴は出なかった。
ただ、彼の喉から壊れた笛のような甲高い呼吸音だけが、漏れ続けていた。




