第二十二話:地下室の呼び声
どれくらいの時間、橘宗一は暗闇の中で身を縮こませていたのだろうか。
永遠とも思えるほど長く続いたあのダムの放流のような轟音は、しかしそれが現れた時と同じように、唐突に、そしてあり得ない速さで遠ざかっていった。
まるで巨大な幻聴の波が、彼の店を通り過ぎていったかのようだ。
轟音が完全に消え去った後には、耳が痛くなるほどの絶対的な静寂だけが残された。
外は本当に晴れているのだろうか。
あの轟音を聞いたのは、本当に自分だけだったのだろうか。
橘は床にへたり込んだまま、荒い呼吸を繰り返していた。
全身は冷たい汗でぐっしょりと濡れている。
先ほどまでの熱病のような興奮は、跡形もなく消え去っていた。
彼の心を今支配しているのは、商人の欲望などではない。
もっと原始的で抗いようのない、純粋な「恐怖」だった。
彼は自分がとんでもないものをこの世に呼び覚ましてしまったことを、ようやく心の底から理解したのだ。
その静寂の、さらにその奥から。 その声が聞こえ始めたのは、そんな時だった。
――ひっく、ひっく……。
か細い子供のむせび泣く声。
それは轟音の暴力とは対極にある、あまりに哀れであまりに悲痛な響きを持っていた。
橘は身を固くした。
音の出どころは外ではない。
この店の中からだ。 彼は息を殺し、耳を澄ませる。
――ひっく……おかあ……さま……さむい……。
声は床下から響いてくるようだった。
彼の店の地下にある商品倉庫の方角から。
その声を聞いた瞬間、橘の脳裏に先ほど読み終えたばかりの、あの記録の文面が鮮烈に蘇った。
【村上藩幼子水死記録】。
鉄砲水に飲まれた下級武士の娘、「おふみ」。
そして記録を記した僧侶が夜伽の最中に、棺の中から聞いたという少女の囁き。
『――寒い。水の中は、もう、嫌じゃ』
間違いない。
この声はあの記録の中にいた少女の声だ。
橘は直感でそう悟った。
物語が紙の中から這い出し、今自分の店の地下室で泣いている。
そのあり得ない事実が、彼の正気をじわじわと削り取っていく。
彼は震える手で近くにあった懐中電灯を掴んだ。
スイッチを入れると、細く頼りない光が暗闇を切り裂く。
彼はその光を頼りに、ゆっくりと立ち上がった。
ひっく、ひっく、という少女の泣き声は続いている。
だが、その声の質が次第に変化し始めていることに橘は気づいた。
「……う……ぐ……ごぼ……っ」
それはもはやただの泣き声ではなかった。
空気を求める喘ぐような音。
そして水が喉に絡みつく、くぐもった絶望的な音。
まるで少女が今まさに、彼の足元で水に溺れ、助けを求めてもがいているかのようだった。
橘は懐中電灯の光を、地下室へと続く床の扉に向けた。
それは帳場の裏手にある、普段は滅多に開けることのない古びた木製の落とし戸だ。
そして彼は、目を見開いた。
落とし戸の四角い縁の、その隙間から、黒く濁った水がじわりと染み出してきている。
「……水……」
彼は這うようにしてその扉に近づいた。
そして指先で、その染み出した水にそっと触れる。
氷のように冷たい。
そして鼻をつく、あの川底の泥のような生臭い匂い。
間違いない。
九谷焼の壺を満たしていた、あの水だ。
彼は耳を直接、冷たい木の扉に押し当てた。
ごぼごぼ、という少女の苦しそうな声。
そしてその向こう側から、「チャプン、チャプン」と水が壁や床を打つ不気味な音がはっきりと聞こえた。
地下室が浸水している。
原因不明の浸水。
そして、その水嵩は今もなお刻一刻と増し続けている。
店の電気は復旧しない。
ショートしたのか、あるいはもっと別の超常的な理由によるものか。
彼は懐中電-灯の光で店の奥にある電話機を照らし出した。
だが受話器を取っても、ツーという発信音は聞こえてこない。
完全に沈黙している。
そうだ、スマートフォンがある。
彼はポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
だが画面は真っ暗なまま、うんともすんとも言わない。 圏外という表示さえない。
それはもはや通信機器ではなく、ただの冷たい黒いガラスの塊と化していた。
断絶。 彼は完全にこの呪われた店の中に、たった一人で閉じ込められてしまったのだ。
外の世界からの救助は望めない。
そして地下からは今も、溺れゆく少女の最後の喘ぎのような声が絶え間なく響き続けている。
橘は店の暗闇の中を、まるで檻の中の獣のように何度も何度も行き来した。
どうすればいい。どうすれば。
彼の頭の中はパニックと恐怖とでぐちゃぐちゃになっていた。
シャッターを叩き大声で助けを呼ぶか?
いや、こんな深夜に誰が来てくれる。
それにこの状況を一体どう説明すればいいというのだ。
彼は立ち止まった。
そして懐中電灯の光を、再び地下室の扉へと向けた。
ごぼ、ごぼ、というくぐもった音が、まるで彼を呼んでいるかのように響いてくる。
――呼び声。
そうだ。これは呼び声なのだ。
あの少女が、彼を呼んでいる。
橘の心の中で、最後の狂気の扉がゆっくりと開き始めた。
逃げられないのなら。助けが来ないのなら。
行くしかないではないか。 この怪異の中心へ。
この呪いの源泉へ。
あの少女がなぜ泣いているのか。
あの水はどこからやってくるのか。
それを確かめなくては。
それはもはや商人としての好奇心ではなかった。
それは恐怖の極致に達した人間が最後にたどり着く、破滅への抗いがたい衝動だった。
彼は店の隅に立てかけてあった鉄製の古い火掻き棒を、強く握りしめた。
そしてゆっくりと、しかし確かな足取りで、地下室の扉へと再び向かっていく。
懐中電灯の細い光が、彼の前に続く暗闇の道を照らし出している。
その光の先にあるのが底なしの沼への入り口であることなど、もはや彼の頭の中にはなかった。
ただ、あの水底からの呼び声に応えなくてはならない。
その狂気じみた使命感だけが、彼の全ての行動を支配していた。




