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秘匿葬送記録  作者: 月影 朔


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第十六話:滲む掛け軸

 橘宗一は、その夜一睡もできなかった。


 店の奥にある住居スペースの固い布団の上で、彼はただ闇を見つめていた。

目を閉じれば、面頬の隙間から流れ落ちるあの赤黒い雫が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


 耳を澄ませば、店の展示スペースの方から「ぽたり、ぽたり」と、あの鎧がまだ涙を流し続けている幻聴が聞こえてくるようだった。


 恐怖。


  商人として様々な修羅場をくぐり抜けてきた自負があった。

しかし今、彼の心を支配しているのは、これまで経験したことのない、もっと根源的で理解を超えた種類の恐怖だった。


 論理が通用しない。

常識が意味をなさない。

あの巻物はこの世のものではない。


 そしてその呪いが今、自分の店に、自分の日常にじわりと染み出してきている。


 夜が明け、窓から白々とした光が差し込んでも、その恐怖は少しも薄れなかった。

店は静まり返っている。

だが、その静寂はもはや安らぎではなかった。


 それは嵐の前の不気味な静けさだ。

彼は店の奥の作業机に置かれたあの桐箱に、視線をやることさえできなかった。

あの箱はもはやただの木箱ではない。

それはこの店に災厄をもたらした、パンドラの箱なのだ。


 どうするべきか。


 巻物を寺に返すか?

いや、あの住職は明らかに厄介払いをしたかったのだ。今更受け取るはずがない。


 燃やしてしまうか?

だが、曰く付きの品を燃やすなど、どんな祟りがあるかわからない。

それに、と彼の心の隅で、まだ消えやらぬ商人の魂が囁く。


 もし、この怪異を乗り越えさえすれば。

本物の呪物として、計り知れない価値が……。


「……馬鹿なことを」

彼はその浅ましい考えを、かぶりを振って追い出した。


 今は金のことなど考えている場合ではない。

まず心を落ち着かせなくては。

日常を取り戻さなくては。

このままでは恐怖に精神を食い潰されてしまう。


 彼は一つの決断をした。

仕事をしよう。

いつも通りの鑑定の仕事だ。


 この店にあるあの忌わしい品々とは何の関係もない、別の品物に集中する。

論理と知識と経験則。

それだけが支配する彼の本来の世界に、意識を無理やり引き戻すのだ。


 彼は店の奥の収蔵棚から一本の掛け軸を取り出した。


 それは彼が数ヶ月前に入手した品で、室町時代の画僧、雪舟の作とされる山水画の精巧な贋作だった。

本物であれば国宝級だが、贋作であってもその筆致は見事なもので、それなりの値が付く。

彼はこの贋作の、さらに詳細な鑑定を後回しにしていたのだ。


 これならいい。

雪舟の贋作。

能登の廃寺とも、あの気味の悪い巻物とも何の縁もゆかりもない。

ただの人間の手によって作られた「物」だ。


 橘は作業机の上のものを全て片付けると、そこに大きな和紙を広げた。

そしてその上に、ゆっくりと掛け軸を広げていく。


 現れたのは、墨の濃淡だけで描かれた幽玄な山水の世界だった。

切り立った岩山、その麓に佇む小さな庵、そして画面の中央をゆったりと蛇行する一本の川。


 彼は鑑定用のルーペを手に取ると、その筆致を一点一点、丹念に調べ始めた。

描線の勢い、墨の滲み具合、そして落款(らっかん)の筆跡。

彼の意識は次第に、その専門的な作業へと没入していく。


 そうだ、これだ。

これが俺の世界だ。


 ここには非科学的な恐怖が入り込む余地などない。

彼の集中力はかつてないほどに高まっていた。

鑑定作業は彼にとって、恐怖から逃れるための唯一の避難所だった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

彼の鑑定は、絵の中心を流れる川の部分へと差し掛かっていた。

彼はルーペを目に近づけ、その水面を描く繊細な筆の運びを覗き込んだ。


 その時、彼は微かな違和感を覚えた。


「……ん?」


 川とその岸辺の岩とを隔てる墨の輪郭線。

その髪の毛のように細く、鋭いはずの線がなぜかぼやけて見える。


  目が疲れているのか。

彼は一度ルーペを外し、強く瞬きをした。

そしてもう一度、レンズ越しにその部分を覗き込む。


 間違いない。

ぼやけている。

いや、滲んでいるのだ。


 まるで乾ききっていない墨で描かれた線を湿った指でなぞってしまったかのように、黒い粒子が和紙の繊維に沿って、じわりと広がっている。


「……なんだ、これは」

彼は思わず呟いた。


 こんなことはあり得ない。

この掛け軸は何百年も前に描かれたものだ。

墨が今更滲み出すはずがない。


 彼は指先でそっと、その滲んだ部分に触れてみた。

だが、紙の表面は完全に乾ききっている。

濡れているわけではない。


 だというのに、目の前の墨は今まさに、彼の目の前でその滲みをゆっくりと、しかし確実に広げ続けていた。


 川が、絵の中でその領域をじわじわと侵食している。

橘は背筋が凍りつくのを感じながらも、その現象から目を離すことができなかった。


 その時だった。

彼の鼻腔を、ある匂いが不意に、しかしはっきりと捉えた。


 それは彼の店に満ちている、古い紙や墨の匂いではなかった。

もっと生々しく、そして湿った匂い。


 ――川霧と、濡れた土の匂い。


 夏の朝、川辺に立った時に感じるあの、濃厚で生命と腐敗が入り混じった独特の匂い。

その匂いが、目の前の乾ききった一枚の絵の中から立ち上ってきているのだ。


 幻覚ではない。

幻嗅でもない。

それは彼の五感を直接揺さぶる、絶対的な「現実」だった。


 二次元の墨で描かれただけの川が、三次元の本物の「匂い」を放っている。


「うわ……っ!」


橘は短い悲鳴を上げると、椅子を蹴倒す勢いでその場から飛びのいた。


 彼はまるで、掛け軸に描かれた川から水蛇でも飛び出してきたかのように錯乱していた。

バランスを崩し、床に尻餅をつく。

彼は恐怖に歪んだ顔で、床に落ちた掛け軸を睨みつけた。


 掛け軸は静かにそこに横たわっている。

川霧の匂いはもう消えていた。


 しかし絵の中の川は、先ほどよりもさらに大きく黒い染みを広げ、その絵全体の調和を醜悪に破壊していた。


 橘は、悟った。

呪いはあの桐箱の中だけに留まってはいない。

それはすでに、この店全体に、彼が愛し、彼の世界の全てであったはずの古美術品の一つ一つにまで染み出してきているのだ。

もはやこの店には、安全な場所などどこにもない。


 彼は呪われた品々に囲まれた、孤島の住人だった。

そして、その島は今、ゆっくりと見えざる水の中へと沈み始めている。

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