第九話:都市の水底
あれから、数週間が過ぎた。
鳥取の山中にあった廃寺の狂乱も、豪雨の夜の闇に走り去った男の笑い声も、今はもう、誰の記憶にも残らない過去の出来事となっていた。
川崎市。
日本のどこにでもある、コンクリートとアスファルトに覆われた都市。
その地下深くには、人々が日常で目にすることのない、もう一つの川が流れている。
都市の静脈とも言うべき、巨大な治水トンネルだ。
管理作業員の斎藤は、長靴でぬかるんだ床を踏みしめながら、点検用の通路を歩いていた。
外は、長く続いた梅雨がようやく明けたばかりで、地上は蒸し暑い空気に満ちている。
だが、この地下空間は、季節とは無関係に、常にひんやりとした湿気と、コンクリートの匂いが支配していた。
ごう、という換気ファンの低い唸りと、壁を伝う水の滴る音だけが、彼の歩みに伴走する。
いつもと変わらない、退屈で、少し気味の悪い仕事。
そのはずだった。
「ん……?」
点検リストを片手に、懐中電灯の光で壁面の亀裂をチェックしていた斎藤は、ふと足を止めた。
本流から分岐する、小さな排水溝の一つ。
その格子状の鉄柵に、何かが詰まっているのが見えた。
木の枝やビニールゴミが流れ着くことは日常茶飯事だ。
だが、今日のそれは、いつもとは違う、異様な気配を放っていた。
近づくにつれて、鼻をつく匂いが変わっていく。
いつもの、澱んだ水の匂いや、カビの匂いではない。
もっと甘く、そして生々しい、腐敗した肉のような悪臭。
斎藤は顔をしかめ、懐中電灯の強力な光を、その一点に集中させた。
鉄柵の向こう側、直径一メートルほどの排水管の奥に、何か白っぽい、不自然な塊が引っかかっていた。
それは、ゴミの塊ではなかった。
絡み合った布、そして、その隙間からのぞく、人間の四肢のようなもの。
「……うそだろ」
斎藤は、背筋が凍りつくのを感じた。
彼は震える手で無線機を取り、上ずった声で管制室を呼び出す。
発見場所の座標、そして「……要救助者、らしきものを発見」という、マニュアル通りの報告。
だが、彼の脳裏には、それが「救助」を必要とする状態でないことは、痛いほどわかっていた。
数時間後、その場所は、地上から運び込まれた投光器の白い光と、警察官たちの無機質な声で満たされていた。
排水管の鉄柵が切断され、中から引きずり出された「それ」は、もはや原型を留めていなかった。
遺体は、成人男性のものだった。
何日も水に浸かっていたかのように、その身体は白く膨れ上がり、皮膚の一部は溶け落ちていた。
身元を示すものは、かろうじてポケットの中に残っていた、水でふやけた運転免許証だけだった。
氏名、久坂理人。
職業、民俗学者。
検死の結果、直接の死因は溺死と断定された。
彼の肺は、このトンネルの汚水とは異なる、泥や藻を含んだ、奇妙な水で満たされていたという。
だが、その結論は、現場の状況とはあまりに矛盾していた。
彼が発見された排水管の内部は、ほとんど乾いていたのだ。
遺体の下に、わずかに黒く、粘り気のある水たまりが残っているだけで、人が溺れるほどの水量はどこにも存在しない。
まるで、彼が、その小さな水たまりの中で溺れたとでも言うかのように。
さらに不可解なことに、彼の所持品は、免許証の入った財布以外、何も見つからなかった。
彼が着ていた衣服は、数週間前に鳥取県の山中で目撃された際の服装と一致していたが、彼が持っていたはずの旅行鞄や、ノートパソコン、そして大量の資料の束は、どこにもない。
鳥取の山中で行方不明になった男が、なぜ、数週間後に、数百キロ離れた川崎の地下トンネルで、溺死体として発見されたのか。
彼が、自力でこの狭い排水管の奥まで入り込むことなど、物理的に不可能だった。
警察の捜査は、初動から暗礁に乗り上げた。
これは、事故か、事件か。あるいは、そのどちらでもない、理解を超えた何かか。
捜査員たちは、ただ首を傾げることしかできなかった。
第一発見者である斎藤は、事情聴取を終えた後も、その場を離れることができなかった。
彼は、投光器に照らされた、あの排水管の暗い入り口を、ただ呆然と見つめていた。
彼の脳裏に、あの光景が焼き付いて離れない。
懐中電灯の光を向けた時、遺体の下に溜まっていた、あの小さな水たまり。
その黒い水面が、ライトの光を不気味に反射して、一瞬だけ、こちらをじっと見つめる、巨大な「瞳」のように見えたのだ。
それは、都市の地下深くに開いた、水底への入り口。
そして、その瞳は、まだ何かを、あるいは、誰かを探しているかのように、昏く、静かに、光っていた。




