第五話:廃人の告白
堂内に満ちる腐臭と泥濘の中で、久坂と老僧は、時が止まったかのように対峙していた。
外では霧雨が音もなく降り注ぎ、崩れかけた本堂の静寂をさらに深くしている。
久坂の心臓は、肋骨を内側から激しく叩いていたが、不思議と声は出なかった。
目の前の老人の存在は、あまりに静かで、この場の風景に溶け込みすぎていた。
まるで、最初からそこにいた一本の古い柱か、苔むした仏像であるかのようだ。
やがて、老僧がゆっくりと口を開いた。
その声は、乾いた葉が擦れ合うような、低く、掠れた音だった。
「……おぬしの名など、どうでもよい」
久坂は、自分が何かを問いかけようとしていたことに、その時初めて気づいた。
老僧は、久坂の言葉を遮ったのではない。
その問い自体が無意味であると、ただ事実を告げたのだ。
「問題は、おぬしが何を連れてきたか、じゃ」
老僧の昏い瞳が、久坂の顔から、その肩、そして背後へと移る。
まるで、久坂には見えない、もう一人の誰かを見ているかのように。
「憑いておるぞ。
湿った経帷子のようにな。
おぬしの背中に、水の影が。
おぬしが吐く息から、澱んだ川底の匂いがする。言葉の端々から、冷たい滴りが落ちておるわ」
その言葉は、久坂の理性を根底から揺さぶった。
見えている。
この老人には、自分を蝕み始めた得体のしれない「何か」が、はっきりと見えているのだ。
恐怖と、そしてほんのわずかな安堵。
一人ではない。
この現象を理解する人間が、ここにいる。
「あなたも……
記録を……?」
久坂がようやく絞り出した声に、老僧はわずかに頷いた。
「わしは、この寺の墓守りのようなものじゃ。
去っていった者たちの代わりに、ただ、観測するためだけに残っておる」
老僧は、泥に汚れた箒を静かに壁に立てかけると、久坂に向き直った。
「『秘匿葬送記録』を、読んだのじゃな」
断定だった。
久坂は、もはや隠すことは無意味だと悟った。
彼は、濡れて重くなった旅行鞄から、ビニール袋に幾重にも包んだ記録の写しを取り出した。
それを見た老僧の顔に、初めて深い憐憫と、諦念の色が浮かんだ。
「……ああ。そうか。
また、一人、選ばれてしもうたか」
老僧は、久坂を本堂の奥へと促した。
泥の床を抜け、かろうじて床板が残っている廊下を進む。
その先には、比較的状態の良い、小さな茶室のような一室があった。
蝋燭の灯りが一つだけ、頼りなげに揺らめいている。
「座られよ」 促されるまま、久坂は湿って冷たい畳の上に正座した。
老僧は、向かいに静かに腰を下ろす。
「おぬしが読んだ記録は、我々が遺した、ただの轍じゃ。
そしておぬしは、その轍に足を取られた」
老僧は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「まず、心得違いを正さねばならん。
おぬしが追っているそれは、死者の霊でも、土地の神の祟りでもない。
もっと古く、もっと根源的な……
我々はそれを、現象、あるいは呪いそのものと捉えておる」
彼は一度言葉を切り、蝋燭の炎を見つめた。
その瞳に、炎の光が揺らめいている。
「我らは、それをこう呼ぶ。
『雨濡』、と」
「うだれ……?」
「雨に、濡れる。
字義通りじゃ。
だが、その本質は、ただ濡れることではない。
染み込まれ、満たされ、内側から水そのものに変えられてしまうこと。
存在の境界を溶かされ、穢れと一体化してしまうことじゃ」
老僧の言葉は、淡々としていた。
だが、その一つ一つが、久坂の理解の範疇を超えた、巨大な恐怖の輪郭を形作っていく。
「雨濡は、魂に憑くのではない。
葬儀という、この世とあの世の境界が最も曖昧になる『儀式』そのものを汚染する。
そして、その儀式に立ち会った者たちを、次の宿主として選び、伝播していくのじゃ」
「伝播……
やはり、そうなのか。
【真一男性葬送記録(平成17年7月20日)】にあった、僧侶の藤原泰然師も……」
久坂の言葉に、老僧は痛ましげに顔を歪めた。
「あれは、伝播などという生易しいものではない。
彼は……
器にされたのじゃ」
「器?」
「雨濡は、水を媒介とする。
雨は言うに及ばず。
参列者の流す涙、窓ガラスに付く結露、鏡の表面の湿気……
そして、今のおぬしのように、記録を読む者の額に滲む、冷や汗さえもな」
老僧の視線が、久坂の鞄からわずかに覗く、スマートフォンの黒い画面に向けられた。
「そして今では、あの硝子の板に映る、情報のノイズさえも、雨濡の通り道となる。
水が流れ、境界が映る場所ならば、どこへでも現れる」
久坂は、自分の部屋で起きた出来事を思い出し、全身の血が凍りつくのを感じた。
ライブストリーミング、天井のシミ、鏡の中の溺死者。
全てが、この老人の言葉によって、一本の線で繋がった。
「藤原泰然師は、どうなったんですか。
記録には、廃人同様になったと……」
久坂の問いに、老僧は答えなかった。
ただ、ゆっくりと立ち上がると、久坂に目で合図した。
「言葉だけでは、本当の恐怖は伝わらん。
おぬしが歩んでおる道の、その終着点がどうなるか……
その目で、見るがよい」
老僧は蝋燭を手に、久坂をさらに寺の奥深くへと導いた。
そこは、本堂よりもさらに湿気が濃く、壁や柱は黒い水垢に覆われ、強烈な黴の匂いが鼻をついた。
一番奥に、ひときわ頑丈な、太い閂が掛けられた扉があった。
老僧は、慣れた手つきで重々しい閂を三本、ゆっくりと外していく。
ぎ、ぎぃ、と錆びた金属が悲鳴を上げた。
扉が開くと、冷気と共に、澱んだ水の匂いが、濃縮された悪意のように吹き出してきた。
「ここじゃ」
蝋燭の光が、部屋の内部を照らし出す。
そこは、石造りの蔵のような、窓一つない完全な暗室だった。
床は常に水が湧き出しているのか、浅い水たまりになっており、壁は水滴でぬらぬらと光っている。
そして、その部屋の隅に、一人の男が蹲っていた。
痩せこけ、髪は伸び放題で、垢じみた白衣をまとっただけの男。
それが、かつて僧侶だった藤原泰然の、現在の姿だった。
彼の目は虚ろで、焦点が合っていない。
ただ、ぼんやりと、目の前の濡れた床を見つめている。
久坂は、息をすることさえ忘れていた。
あれが、記録者の末路。
怪異の深淵を覗き込み、その一部となってしまった男の姿。
藤原泰然は、不意に、ゆっくりと動き出した。
彼は水たまりに震える指先を浸すと、その濡れた指で、畳の上に、何かを描き始めた。
それは、意味のある文字や図形ではなかった。ただ、延々と、円。
大小さまざまな円を、繋ぎ合わせるように、執拗に描き続けている。
そして、彼の唇から、声が漏れた。
それは、水中で漏れる最後の呼気のような、湿った、呻くような囁きだった。
「うだれ……うだれ……みずは……みちる……」
その声は、久坂や老僧に向けられたものではない。
彼自身の内側から響く、呪いそのものの呟きだった。
老僧は、静かに扉を閉め、再び閂を掛けた。
そして、恐怖に凍りつき、その場から一歩も動けなくなっている久坂に向き直った。
その老いた瞳には、もはや憐憫の色はなかった。
そこにあるのは、判決を言い渡す裁判官のような、冷徹な光だけだった。
「これで、わかったはずじゃ」
「雨濡を知ることは、雨濡の通り道になること。
そしておぬしは……
あまりに多くを、知りすぎた」




