43-1 動けない?
そんな時、ルカ夫妻がアリシアを連れて遊びに来た。ふたりは聖女を間近で見るのは初めてだったらしく、その表情にははっきりとした戸惑いが浮かんでいた。
「……あの方が聖女様ですか。なんというか、近づきたくない女性ですね。ぞくっとするような、得体の知れない感じがするんです。なぜだか分かりませんけど」
「ルカさんもそう思ったのね? 実は旦那様も同じようなことをおっしゃっていましたわ。けれど、アベラールは聖女様を慕っていますのよ」
「アベラール様はお優しいですから、誰にでも心を開かれるのでしょう。……ですが、あたしもあのような人は苦手ですわ。表の顔と裏の顔を使い分ける商人によくいますよ。やたらと笑顔が上手い詐欺師、というか。……アリシア、アベラール様と遊んでいらっしゃい。あの女のそばから、引き離してあげて」
アリシアはアンナにそう言われると、使命感に燃えてアベラールを聖女のそばから引き離し、ミュウと三人で遊びはじめた。そこへまた聖女が割って入ろうとしたのだけれど、アリシアはにっこりと朗らかに断っていた。
「せいじょさま! いま、わたしたちは、こどもどうしであそんでいるところなんです。せいじょさまには、おしごとがあるはずです。しんでんとおなじように、いのりをささげるじかんもひつようでしょう? いまのうちに、いのっておいたほうがいいとおもいます」
その言い方はあまりに自然で、礼儀正しくて、否定の余地がなかった。アベラールもすぐに笑ってうなずいた。
「うん。アリシアのいうとおりだね。せいじょさま、おしごとがんばってください。いままであそんでくれてありがとう」
開け放たれたサロンの窓から、そのやりとりがそっくり聞こえてきた。私たちは思わず視線を交わし、こみ上げてくる笑いを堪えるのに苦労した。
「アリシアちゃん、なんて賢い子なのかしら。あそこまで言われては、さすがの聖女様も引き下がるしかありませんわね……」
私は窓の外に目を向けたまま、そっとほほえんだ。そのまま、ふと視線を落とすように続ける。
「それに、考えてみれば――あの方が祈りを捧げているところ、私は一度も見たことがありませんわ。聖女様なのに、どうしてかしらね」
すると隣のソファに座っていたアンナが、顔をわずかにしかめ、声を低くした。
「やはり詐欺師かもしれません。ジャネット奥様、お気をつけください。あの手の女は……人を油断させて、いつの間にか懐に入り込んでくるんですわ」
アンナの言葉に、私はゆっくりとうなずいた。私の中でも、同じ結論にたどり着きかけていたからだ。すぐそばで聞いていたルカが、落ち着いた声で続けた。
「うちの妻は、人を見る目だけは確かなんです。こういう直感、ほとんど外したことがないんですよ」
***
ここ数日、アベラールは聖女に近づこうとせず、私やミュウと一緒に穏やかな時間を過ごしていた。それだけでも、ほんの少し安心していたのに――。
ある日の午後、ふと目を離したほんの一瞬だった。庭園の奥。何気なく視線を向けた先で、私はその光景を見てしまった。ガゼボの中で、アベラールと聖女が向かい合って座っている。距離が近すぎる。私はとっさにガゼボへと駆けだした。
「アベラール様は本当に、素晴らしい力を持っていますわ。私と仲良くなれば、もっと素敵な世界をご覧になれますのよ。なんでも思い通りになる世界、欲しいものはすべて手に入るんです。……さあ、私の手を取って。私の瞳を、じっと見つめてくださいませ。そして――」
ぞわり、と背中を悪寒が走った。
なのに、足が動かない。
私はガゼボの前で立ち尽くしていた。
まるで地面に縫い付けられたように、身体が一歩も動けない。
周囲の使用人たちも、ただ、立ったまま彫刻像のようだった。
……なに、これ?
いったい、何が起きているの?




